健康の都市

 君が詩集の終わりに

 大正2年の春もおしまいのころ、私は未知の友から一通の手紙をもらった。私が当時雑誌ザムボアに出した小景異情という小曲風な詩について、今の詩壇では見ることのできない純な真実なものである。これから君はこの道を行かれるように祈ると書いてあった。私は未見の友達から手紙をもらったことがこれが生まれて初めてであり又これほどまで鋭く韻律の一端をも漏らさぬ批評に接したこともこれまでには無かったことである。私は直覚した。これは私とほぼ同じような若い人であり境遇もほぼ似た人であると思った。ちょうど東京に一年ばかり漂白して帰っていたころで親しい友達というものも無かったので、私は 飢え渇いたようにこの友達に感謝した。それからというものは私たちは毎日のように手紙をやりとりして、ときには世に出さない作品をお互いに批評し合ったりした。

 私はときおり寺院の脚高な縁側から国境山脈をゆめのように眺めながらこの友のいる上野国やよく詩にかかれる利根川の堤防なぞを懐かしく考えるようになったのである。会えばどんなに心分《こころもち》の触れ合うことか。いまにも飛んで行きたいような気が何時も瞼《まぶた》を熱くした。この友もまた逢って話したいなぞと、まるで二人は恋しあうような激しい感情をいつも長い手紙で物語った。私どもの純真な感情を植え育ててゆくゆく日本の詩壇に現れ立つ日のことや、またどうしても詩壇のために私どもが出なければならないような図抜けた強い意志も出来ていた。どこまで行っても私どもはいつも離れないでいようと女性と男性との間に約されるような誓いも立てたりした。

 大正三年になって私は上京した。そして生活というものと正面からぶつかって、私はすぐに疲れた。その時はこの友のいる故郷とも近くなっていたので、私はくたびれたままですぐに友に逢うことを喜んだ。友はその故郷の停車場でいきなり私のうろうろしているのをつかまえた。私どもは握手した。友はどこか品のある瞳の大きな創造したとおりの毛唐《けとう》のようなとこのある人であった。私どのは利根川の堤を松並木のおしまいに建った旅館まで車にのった。浅間のけむりが長くこの上まで尾を曳いて寒い冬の日が沈みかけていた。
 旅館は利根川の上流の、市街《まち》のはずれの静かな磧《かわら》に向って建てられていた。すぐに庭下駄をひっかけて茫々とした磧《かわら》へ出られた。二月だというのにいろいろなものの芽立ちが南に向いた畦だの崖だのにぞくぞく生えていた。友はよくこの磧《かわら》から私をたずねてくれた。私どもは詩を見せ合ったり批評をし合ったりした。
 大正四年友は出京した。
 私どもは毎日会った。そして私どもの狂わしいBARの生活が始まった。暑い八月の東京の街路で時には激しい議論をした。熱い熱い感情は鉄火のような量のある愛に燃えていた。ときには根津権現の境内やBARの卓《テーブル》の上で試作をしたりした。私は私で極度の貧しさと戦いながらも盃は唇を離れなかった。そしていつもこの友にやっかいをかけた。
 間もなく友は友の故郷へ私は私の国へ帰った。そして端なく私どもの心持を結びつけるために『卓上噴水』というぜいたくな詩の雑誌を出したが三冊でつぶれた。
 私どもがこの雑誌が出なくなってからお互いにまた逢いたくなったのである。友は私の生国に私を訪問することになった。私のかいた海岸や砂丘や静かな北国の街々なぞの景情が友を遠い旅中の人として私の故郷を訪れた。私が三年前に友の故郷を友とつれ立って歩いたように、私は友をつれて故郷の街や公園を紹介した。私のいるうすくらい寺院を友は私のいそうな所だと喜んだ。または廊《ろう》の日ぐれどきにあちこち動く赤襟《あかえり》の美しい姿を珍らしがった。または私が時々に行く海岸の尼寺をも案内した。そこの砂山を越えて遠い長い渚を歩いたりして荒い日本海をも紹介した。それらは私どもを子供のようにして楽しく日をくらさせた。そのころ私は愛していた一少女をも紹介した。
 友は間もなくかえった。それから友からの消息はばったりと絶えた。友の肉体や思想の内部にいろいろな変化が起ったのもこの時からである。手紙や通信はそこからあとは一つも来なかった。私は哀しい気がした。あの高い友情は今友の内心から突然に消え失せたとは思えなかった。あのような烈しい愛と熱とがもう私と友とを昔日のように結びつけることが出来なくなったのであろうか。私にはそう思えなかった。
 『竹』という詩が突然に発表された。からだじゅうに巣食った病気が腐れた噴水のように、友の詩を味わう私を不安にした。友の肉体と魂とは晴れた日にあおあおと伸び上がった『竹』におびやかされた。を感じる力は友の肉体の上にまで重量を加えた。かれは、からだじゅう竹が生えるような神経系統にぞくする恐竹病におそわれた。そしてまた友の肉体に潜《ひそ》んだいろいろな苦闘と疾患《しっかん》とが、友を非常な神経質の針のさきのようなちくちくした痛みを絶えず経験させた。

  ながい疾患のいたみから
  その顔は蜘蛛の巣だらけとなり
  腰からしたは影のやうに消えてしまひ
  腰から上には竹が生え
  手が腐れ
  しんたいいちめんがぢつにめちやくちやなり
  ああ、けふも月が出で
  有明の月が空に出で
  そのぼんぼりのやうなうすあかりで
  奇形の白犬が吠えて居る
  しののめちかく
  さむしい道路の方で吠える犬だよ

 私はこの詩を読んで永い間考えた。あの利根川のほとりで土筆やたんぽぽ又は匂い高い抒情小曲などをかいたこれが紅顔の彼の詩であろうか。かれの心も姿もあまりに変わり果てた。かれはきみのわるい奇形の犬のぼうぼうと吠える月夜をぼんぼりのように病みつかれて歩いている。ときは春の終わりのころであろうか。二年にもあまる永い病気がすこしよくなりかけ、ある生ぬるい晩を歩きにでると世の中がすっかり変化《かわ》ってしまったように感じる。永遠というものの力が自分のからだを外にしてもこうして空と地上とに何時までもある。道路の方で白い犬が、ゆめのようなミステックな響をもってぼうぼうと吠えている。そして自分の頭がいろいろな病のために白痴のようにぼんやりしている。ああ月が出ている。
 私は次の頁をかえす。

  遠く渚の方を見わたせば
  ぬれた渚路には
  腰から下のない病人の列が歩いてゐる
  ふらりふらりと歩いてゐる

 彼にとっては総てが変態であり恐怖であり幻惑《げんわく》であった。かれの静かな心にうつってくるのは、かれの病みつかれた顔や手足にまつわる悩ましい蜘蛛の巣である。彼はほとんど白痴に近い感覚の最も発作の静まった時にすら、その指さきからきぬいとのようなものの垂れるのを感じる。その幻覚はかれの魂を慰める。ああ蒼白なこの友が最も不思議に最も自然に自分の指をつくづく眺めているのにでくわして涙なきものがいようか。私と向ひ合った怜悧《れいり》な目付きはどんよりとして底深いところから静かに実に不審な病夢を見ているのである。
 それらの詩編が現れると間もなく又ばったり作がなかった。私のとこへも通信もなかった。私から求めると今私に手紙をくれるなとばかり何事も物語らなかった。とうとう一年ばかり彼は誰にも会わなかった。かれにとってすべての風景や人間がもう平気で見ていられなくなった。ことに人を怖れた。まがりくねって犬のように病んだ心と、人間のもっとも深い罪や科やに対して彼は自らを祈るに先立って、その祈りを犯されることを厭《いと》うた。ひとりでいることを、ひとりで祈ることを、ひとりで苦しみ考えることを、ああ、その間にも彼の疾患は辛い辛い痛みを加えた。かれはヨブのような苦しみを試みられているようでもあった。なぜに自分はかように肉体的に病み苦しまなければならないかとさえ叫んだ。
 かれにとってある一点を凝視するような祈祷の心持!どうにかして自分の力を、今持っている意識をもっと高くしもっと良くするためにもこの疾患《しっかん》を追い出してしまいたいとする心持!この一巻の詩の精神は、ここから発足しているのであった。

 彼の物語の深さはものの内臓にある。くらい人間のお腹にぐにゃぐにゃに詰ったいろいろな機械の病んだもの腐れかけたもの死にそうなものの類《たぐい》が今光の方向を向いている。光の方へ。それこそ彼の求めている一切である。彼の詩のあやしさはポオでもボードレールでもなかった。それはとうてい病んだものでなければ窮地することのできない特種な世界であった。彼は祈った。かれの祈祷は詩の形式であり懺悔の器であった。

  凍れる松が枝に
  祈れるままに縊されぬ

 という天上縊死の一章を見ても、どれだけ彼が苦しんだことかが判る。かれの詩は子供がははおやの白い大きい胸にすがるようにすなおな極めて懐かしいものもその疾患の絶え間絶え間に物語られた。
 萩原君。
 私はここまで書いてこの物語が以前に送った跋文にくらべて、どこか物足りなさを感じた。君がふとしたころから跋文を紛失したと青い顔をして来たときに思った。あれは再度かけるものではない。かけてもその書いていたときの情熱と韻律とが二度と浮かんでこないことを苦しんだ。けれどもペンをとると一気に十枚ばかり書いた。けれどもこれ以上書けない。これだけでは兄の詩集をけがすに過ぎぬ。一つは兄が私の跋文を紛失させた罪もあるが。
 ただ私はこの二度目のこの文章をかいて知ったことは、兄の詩を余りに愛し過ぎ、兄の生活をあまりに知り過ぎているために、私に批評が出来ないような気がすることだ。思えば私どもの交わってからもう五六年になるが、兄は私にとっていつもよい刺激と鞭撻《べんたつ》を与えてくれた。あの奇怪な『猫』の表現の透徹した心持ちは、幾度となく私の模倣したものであったが物にならなかった。兄の繊細な恐ろしい過敏な神経質なものの見かたは、いつもサイコロジカルに浸透していた。そこへは私は行こうとして行けなかったところだ。
 兄の健康は今兄の手にもどろうとしている。兄はこれからも変化するだろう。兄のあつい愛は兄の詩をますます研ぎすましたものにするであろう。兄にとって病多い人生がカラリと晴れ上がって兄の肉体を温めるであろう。私は兄を福祉する。兄のためにこの人類のすべてがもっと健康な幸福を与えてくれるであろう。そして兄がこの悩ましくも美しい一巻を抱いて街頭に立つとしたらば、これを読むものはどれだけ兄がくるしんだかを理解するようになる。この数多い詩編をほんとに解るものは、兄の苦しんだものを又必然苦しまねばならぬ。そして皆は兄の蒼白な手をとって親しく微笑してさらに健康と勇気と光との世界を求めるようになるであろう。さらにこれらの詩編によって物語られた特異な世界と、人間の感覚を極度までに鋭どく動かしてそこに神経ばかりのたとえば歯痛のごとき苦悶を最も新しいい表現と形式によったことを皆は認めるであろう。
 も一歩進んで言えば君ほど日本語にかげ深さを注意したものは私の知るかぎりでは今までには無かった。君は言葉よりもそのかげ深さとを音楽的な才分とで創造した。君は楽器で表現できないリズムに注意深い耳をもっていた。君自らが音楽家であったという事実をよそにしても、いろはにほへを鍵盤にした最も進んだ詩人の一人であった。
 ああ君の魂に祝福あれ。
 大声でしかも地響きのする声量で私は呼ぶ。健康なれ!おお健康なれ!。と。

  千九百十六年十二月十五日深更

東京郊外田端にて    
室生 犀星  

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挿画附言

朔太郎兄
 私の肉体の分解が遠くないという予覚が私の手を着実に働かせてくれました。兄の詩集の上梓《じょうし》されるころ私の影がどこにあるかと思うさえ微笑されるのです。

 私はまず思っただけの仕事を仕上げました。この一年は貴重な付加でした。

 いろんな人がいろんなことを言う。それが私に何になるでしょう。心臓が右の胸でときめき、手が三本あり、指さきに透明文がひかり、二つの生殖器を有する。それが私にとってたった一つの真実。

 蒼白の芸術の微笑です。かの蒼空と合一するよろこびです。

恭吉  


傷みて なほも ほほゑむ 芽なれば いとど かわゆし
こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ
  ■
むなしき この日の 涯《はて》に ゆうべを 迎へて 懼《く》るる
ひと日に ひと日を かさねて なに まち侘《わ》ぶる こころか
  ■
こよひも いたく さみしき かなしみに 包まり 寝ねむ
さはあれ まどの かなたに まどかに 薫《く》ゆる ゆうづき
  ■
痴愚の なみだを ぬぐひて わが しかばねに 見入れよ
あふげば 青空《そら》を ながるる やはらかき 雲の こころね
  ■
わかれし ものの かへりて 身につき まつはる うれしさ
すこやかよ すこやかよ 疾く かへりね わがやに

 月映 告別式より

恭吉  

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挿画附言

 萩原君の詩はおおよそ独特なものだ。その独特さに共通した心緒を持つ故田中恭吉がその挿画を完成しないで逝いたのは遺憾なことだ。ただその画稿が残っていたことがせめてもの幸いでした。彼の最後の手紙に
 「私はとうてい筆をとれない私の熱四十度を今二三度出れば私の脉百四十を、いま二三十出れば私は亡くなる。私はいますべてをすてて健康を欲している。最初私は氏の詩歌の挿画に百枚の予稿をつくりその中から二十――三十の絵を選んで美しいものにしたいと思った。そして《不明》上な勢いで着手し稿画五葉をつくりしのち臥床した。」――一九一五年八月、その死後、彼の従弟の厚意によって私の手許に集まったのが、この集の包紙の表裏にかきつけた十三枚の画稿と、口絵の金色の絵であった。外にどれ程あったか分からない。十三枚の画でさえ、心なき消毒人によって害はれ浸みほけている。前者は赤い薬紙に赤いインキで書かれ、後者は黒い羅紗紙に金色のインキでかかれている。
 これらの絵は彼の死ぬ三月まえに執筆せられ彼の遺したものの最も後のものです。一九一五年七月。両種とも製版複製に困難なものであるだけ画題が損じた。遺憾とする。すべて画題はない。装丁についても、彼の構想を見るべき草稿があるけれど、それは依ることの出来ない程の草稿なので止むなくそれから適わしいものを取り出でて、心持を移して私が作った。
 挿画については彼はこういっている。「他人の詩集に挿画するのは重大だと思ふ。だから私がもしそれをやる場合にはむしろ原詩に執しないわがままな画を挿みたいと思ふ。」 しかしもっぱら、他から、私が見るに彼の資性と萩原君の資性との類似ということよりも、いみじい交通からなる、それは不識の美しい人生の共感だが、倍加された緊密な美がある。むろん恭吉自身のものであるが又同時に彼一個のものでもない。この病弱な、繊細な、又死に対しての生の執着の明るいそして暗い世界の存在に呼吸した生息がこれらの一線にも浸み出ている。一九一四年七月。
 「死人とあとに残れるもの」及び「冬の夕」は共に一九一四年十二月、彼が病苦から軽くせられていた頃、その「死」の体覚及び「発病の回想」から生まれた心境と見るべく前者は画稿では鉛筆のあとを止めている。
 「悔恨」及び「懈怠」は、翌年二月、書きためた画稿をまとめて集とした「心原幽趣」のうちから抜いた。その序詞。
  「これ痛き感謝のこころなり。なみだにぬれしほほゑみなり。おもへばきのふ死なむとしてあやふくも生きながらへたる身かな。――略――しひたげられ、さひなまれつつ、いかばかり生きのちからのいみじきかを ためさむねがひなり。」
 「悔恨」は過ぎし日のあやかしのいのちをかえりみて。「懈怠」は病み疲れた肉心の嫌忌と、又ある愛情と又腐れ果つべき肉体と。それらの心境を示して美しく。
 仮に名づけて「こもるみのむし」とするものはおそらく同年二月――三月にかかれたものであろう。仕上がった画ではないけれど、こもる病体と、外界の光輝の痛さ鋭さが美しくかかれている。
 扉にしたものは小さいアイボリ紙にかいたもので詩集空にさくエーテルの花などと横にかいてあるのをとって画題とした、この世は光《まぶ》しい。一九一五年上半期。
 包紙に用いた「夜の花」は彼自身、もしも詩集でも出すことがあれば表紙にするのだといったもので、いま、採りたてのこの詩集に用いた。一九一五年一月、発病後小康を得て東京市外池袋に起臥した頃かいたもので、ワットマン紙に丹念にかかれてある。印刷で止むなく画を損じたけれど彼の繊細な青麗な情趣が籠められている。
 私の挿画については別にいうべくない、すべてこの集について版を刻ったもの。
 最後に、この集が三者の心緒に快く交通して成ったことの記銘を残しておく。

一九一六年十二月 恩地孝四郎  

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故田中恭吉氏の芸術に就いて

 雑誌「月映」を通じて、私が恭吉氏の芸術を始めて知ったのは、今から二年ほど以前のことである。当時、私があのすばらしい芸術に接して、どんなに驚異と嘆美の瞳をみはったかと言うことは、殊更に言うまでもないことであろう。実に私は自分の求めている心境の世界の一部分を、田中氏の芸術によって一層はっきりと凝視することが出来たのである。
 その頃、私は自分の詩集の装丁や挿画を依頼する人を物色していた際なので、この新しい知己を得た喜びは一層深甚《しんじん》なものであった。まもなく恩地孝氏の紹介によって私と恭吉氏とは、互いにその郷里から書簡を往復するような間柄になった。
 幸いにも、恭吉氏は以前から私の詩を愛読していられたので、二人の友情はたちまち深い所まで進んで行った。当時、重患の病床中にあった恭吉氏は、私の詩集の計画をきいて自分のことのように喜んでくれた。そしてその装丁と挿画のために、彼のすべての「生命の残部」を傾注することを約束された。
 とはいえ、それ以来、氏からの消息はばったり絶えてしまった。そして恩地氏からの手紙では「いよいよ恭吉の最後も近づいた」ということであった。それから暫《しばら》くして或日突然、恩地氏から一封の書留小包が届いた。それは恭吉氏の私のために傾注しつくされた「生命の残部」であった。床中で握りつめながら死んだという傷ましい形見の遺作であった。私はきびしい心でそれを押し頂いた。《この詩集に挿入した金泥の口絵と、赤地に赤いインキで薄く描いた線画がその形見である。この赤い絵は、劇薬を包む赤い四角の紙に赤いインキで描かれてあった。恐らくは未完成の下図であったろう。非常に緊張した鋭いものである。その他の数葉は氏の遺作集から恩地君が選抜した。》
 恭吉氏は自分の芸術を称して、自ら「傷める芽」と言っていた。世にも稀有な鬼才をもちながら、不幸にして現代に認められることが出来ないで、あまつさえその若い生涯のほとんど全部を不治の病床生活に終って寂しく夭死《ようし》して仕舞った無名の天才画家のことを考えると、私は胸に釘をうたれたような苦しい痛みをかんじる。
 思うに恭吉氏の芸術は「傷める生命《いのち》」そのもののやるせない絶叫であった。実に氏の芸術は「語る」というのではなくして、ほとんど「絶叫」に近いほど張りつめた生命の苦喚の声であった。私は日本人の手に成ったあらゆる芸術の中で、氏の芸術ほど真に生命的な、恐ろしい真実性にふれたものを、他に決して見たことはない。
 恭吉氏の病床生活を通じて、彼の生命を悩ましたものは、その異常なる性欲の発作と、死に面接する絶えまなき恐怖であった。
 なかんずく、その性欲は、ああした病気に特有な一種の恐ろしい熱病的執拗《しつよう》をもって、絶えずこの不幸な青年を苦しめたものである。恭吉氏の芸術に接した人は、そのありとあらゆる線が、無気味にもことごとく「性欲の嘆き」を語つている事に気がつくであろう。それらの異常なる絵画は、見る人にとっては真に戦慄《せんりつ》すべきものである。
「押さえても押さえても押さえきれない性欲の発作」それはむざむざと彼の若い生命を喰ひつめた悪魔の手であった。しかも身動きも出来ないような重病人にとって、こうした性欲の発作が何になろうぞ。彼の芸術では、すべての線がこの「対象の得られない性欲」の悲しみを訴えている。そこには気味の悪いほど深刻な音楽と祈祷とがある。
 襲いくる性欲の発作のまえに、彼はいつも瞳を閉じて低く歌った。

こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ

 何といふ善良な、至純な心根をもった人であろう。だれかこのいじらしい感傷の声をきいて涙を流さずにいられよう。
 一方、こうした肉体の苦悩に呪われながら、一方に彼はまた、眼のあたり死に面接する絶えまなき恐怖に襲われていた。彼はどんなに死を恐れていたか解らない。「とても取り返すことの出来ない生」を取り返そうとして、墓場の下から身を起こそうとして無益に焦心する、悲しいたましいのすすりなきのようなものが、彼の不思議の芸術の一面であった。そこには深い深い絶望の嗟嘆《さたん》と、人間の心のどん底からにじみ出た恐ろしい深刻なセンチメンタリズムとがある。
 しかしこれらのことは、私がここに拙悪《せつあく》な文章で紹介するまでもないことである。見る人が、彼の芸術を見さえすれば、何もかも全感的に解ることである。すべて芸術をみるに、その形状や事実の概念を離れて、直接その内部生命であるリズムにまで触感することの出来る人にとっては、一切の解説や紹介は不要なものにすぎないから。
 要するに、田中恭吉氏の芸術は「異常な性欲のなやみ」と「死に面接する恐怖」との感傷的交錯である。
 もちろん、私は絵画の方面では、全く知識のない素人であるから、専門的の立場から観照的に氏の芸術の優劣を批判することは出来ない。ただ私の限りなく氏を愛敬してその夭折を傷むゆえんは、もちろん、氏の態度や思想や趣味性に私と共鳴する所の多かったにもよるが、それよりも更に大切なことは、氏の芸術が真に恐ろしい人間の生命そのものに根ざした絶叫であったと言うことである。そしてこうした第一義的の貴重な創作を見ることは、現代の日本においては、極めて極めて特異な現象であるということである。

萩原朔太郎  

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ルビは《》で示した。
傍点は太字で示した。
詩の旧字の一部は現代表記になおした。
序文・跋文についての旧字旧仮名は現代読みになおした。
底本:「詩集 月に吠える」角川文庫(昭和44年)
初出:「月に吠える」感情詩社・白日社共版(大正6年2月15日)