高村光太郎の年譜

明治16年
現東京都台東区に、父幸吉、母わかの長男として生まれる。本名光太郎(みつたろう)。父は光雲と号し、伝統の彫刻技術を伝えた木彫家である。兄弟9人
明治30年
東京美術学校予科に入学。文学を好み、芝居に親しむ。
明治31年
本科彫刻科に進む。美校在学中、俳句を新聞や「ホトトギス」に投稿、いかづち会の服部躬治に短歌を学ぶ。
明治33年
与謝野鉄幹にひかれ「新詩社」に入る。
明治35年
東京美術学校彫刻科を卒業。卒業後研究科に残る。
明治38年
研究科を終え、洋画科に再入学。黒田清輝藤島武二らに学ぶ。
明治39年
渡米。ニューヨークで彫刻家ボーグラムの内弟子兼助手となり、美術学校に夜通い、自費の苦学生活を送る。
明治40年
農商務省海外実業練習生となり生活の資を得て、渡英。ロンドンで画家ブラングインとスワンの画学校に通う。
明治42年
帰国。駒込千駄木林町のアトリエで彫刻制作をする一方、芸術運動「パンの会」と、雑誌「スバル」に関係する。
明治43年
神田淡路町に日本初の画廊をひらく。
明治44年
「スバル」に「失われたモナリザ」などを発表。
精神の危機から北海道移住を計画、月寒に赴くが、失望して帰京。
画廊を閉鎖。
橋本八重の紹介で長沼千恵子を知り、恋愛に入る。
明治45年
込林町25番地に新しいアトリエ完成、転居。
この頃から、のちに「千恵子抄」に収めた初期の恋愛詩を書き始める。
大正2年
千恵子と婚約。
大正3年
処女詩集「道程」を自費出版
千恵子と結婚。
大正4年
「千恵子の首」等を製作。
印象主義の思想と芸術」、傑作歌選「高村光太郎与謝野晶子」を刊行。
大正5年
訳書「ロダンの言葉」を刊行。
大正6年
彫刻作品「手」「腕」「ピアノを弾く手」等を製作。
大正9年
訳書「続ロダンの言葉」を刊行。
大正10年
エリザベット・ゴッホ「回想のゴッホ」訳、ホイットマン「自選日記」訳、ヴェルハアラン詩集「明るい時」訳を刊行。
「明星」復刊と同時に「雨にうたるるカテドラル」他長編詩を次々に発表。
大正13年
ロマン・ロランの戯曲「リリュリ」訳を刊行。
木彫の「蝉」「鯰」「桃」「蓮根」等製作。
詩は個から社会的現実に目をむけた「猛獣篇」時代に入る。
大正14年
ヴェルハアラン詩集「天上の炎」訳を刊行。
母わか死去。
昭和2年
評伝「ロダン」を刊行。
昭和4年
千恵子の実家が破産。
昭和6年
約1ヶ月三陸地方を旅行、千恵子に精神分裂の兆候があらわれる。
昭和7年
千恵子、アダリン自殺を図る。
昭和9年
千恵子を千葉県九十九里浜に転地させる。父光雲死去。
昭和10年
千恵子、南品川ゼームス坂病院に入院。
昭和13年
千恵子、死去。
昭和14年
河出書房「現代詩集」に「猛獣篇」その他新作を発表。
昭和15年
「道程」改訂版を刊行。
昭和16年
詩集「千恵子抄」、随筆集「美について」を刊行。
昭和17年
評論集「造形美論」、詩集「大いなる日に」を刊行。
昭和18年
随筆集「其月其日」、少国民詩集「をぢさんの詩」を刊行。
昭和19年
詩集「記録」を刊行。
昭和20年
詩集「道程」再訂版を刊行。
空襲でアトリエ全焼。岩手県花巻市疎開。同県稗貫郡大田村山口の鉱山小屋に移り、農耕自炊の隠棲生活を以後7年間続ける。
昭和22年
「展望」7月号に20編の連作詩「暗愚小伝」を発表。短歌集「白斧」を刊行。
昭和25年
詩集「典型」「千恵子抄その後」を刊行。
昭和26年
高村光太郎選集」全6巻が刊行開始。
昭和27年
随筆集「独居自炊」を刊行。
十和田国立公園功労者顕彰記念の裸婦像製作を開始。
昭和28年
「みちのくの手紙」を刊行。
ブロンズ裸婦像「乙女の像」序幕。
昭和29年
高村光太郎詩集」を刊行。
昭和31年
中野のアトリエにて死去。
駒込の染井墓地に埋葬。



(白凰社 「高村光太郎詩集」年表 参考)