さびしい青猫

ここには一疋の青猫が居る。さうして柳は 風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。

しののめきたるまへ 家家の戸の外で鳴いてゐるのは鶏《にはとり》です 声をばながくふるはして さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です とをてくう、とをるもう、とをるもう。 朝のつめたい臥床《ふしど》の中で 私のたましひは羽ばたきをする この雨戸…

仏の見たる幻想の世界

花やかな月夜である しんめんたる常盤木の重なりあふところで ひきさりまたよせかへす美しい浪をみるところで かのなつかしい宗教の道はひらかれ かのあやしげなる聖者の夢はむすばれる。 げにそのひとの心をながれるひとつの愛憐 そのひとの瞳孔《ひとみ》…

憂鬱の川辺

川辺で鳴つてゐる 蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい しぜんに生えてる するどい ちひさな植物 草本《さうほん》の茎の類はさびしい 私は眼を閉ぢて なにかの草の根を噛まうとする なにかの草の汁をすふために 憂愁の苦い汁をすふために げにそこにはなに…

黒い風琴

おるがんをお弾きなさい 女のひとよ あなたは黒い着物をきて おるがんの前に坐りなさい あなたの指はおるがんを這ふのです かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。 だれがそこで唱つてゐるの だれがそこ…

夢にみる空家の庭の秘密

その空家の庭に生えこむものは松の木の類 びはの木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの類 さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝 またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂するところの植物 およそ しだ わらび ぜんまい もうせんごけの類 地べたいちめ…

憂鬱なる花見

憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた 桜の枝はいちめんにひろがつてゐる 日光はきらきらとしてはなはだまぶしい 私は密閉した家の内部に住み 日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる その卵や肉はくさりはじめた 遠く桜のはなは酢え 桜のはなの酢えた匂ひ…

憂鬱なる桜

感覚的憂鬱性! それは桜のはなの酢えた匂ひのやうに、白 く埃つぽい外光の中で、いつもなやましい光を感じさせる。

恐ろしく憂鬱なる

こんもりとした森の木立のなかで いちめんに白い蝶類が飛んでゐる むらがる むらがりて飛びめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ みどりの葉のあつぼつたい隙間から ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼《つばさ》 いつぱいに群がつてとび…

蠅の唱歌

春はどこまできたか 春はそこまできて桜の匂ひをかぐはせた 子供たちのさけびは野に山に はるやま見れば白い浮雲がながれてゐる。 さうして私の心はなみだをおぼえる いつもおとなしくひとりで遊んでゐる私のこころだ この心はさびしい この心はわかき少年の…

野原に寝る

この感情の伸びてゆくありさま まつすぐに伸びてゆく喬木のやうに いのちの芽生のぐんぐんとのびる。 そこの青空へもせいのびをすればとどくやうに せいも高くなり胸はばもひろくなつた。 たいそううららかな春の空気をすひこんで 小鳥たちが喰べものをたべ…

春の感情

ふらんすからくる烟草のやにのにほひのやうだ そのにほひをかいでゐると気がうつとりとする うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情 つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ 春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちをふきならす笛のひびきのや…

月夜

重たいおほきな羽をばたばたして ああ なんといふ弱弱しい心臓の所有者だ。 花瓦斯のやうな明るい月夜に 白くながれてゆく生物の群をみよ そのしづかな方角をみよ この生物のもつひとつのせつなる情緒をみよ あかるい花瓦斯のやうな月夜に ああ なんといふ悲…

青猫

この美しい都会を愛するのはよいことだ この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ すべてのやさしい女性をもとめるために すべての高貴な生活をもとめるために この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ 街路にそうて立つ桜の並木 そこにも無数の雀…

その手は菓子である

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ 指なんかはまことにほつそりとしてしながよく まるでちひさな青い魚類のやうで やさしくそよそよとうごいてゐる様子はたまらない ああ その手の上…

群集の中を求めて歩く

私はいつも都会をもとめる 都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる 群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ ああ ものがなしき春のたそがれどき 都会の入り混みたる建築と建築と…

強い腕に抱かる

風にふかれる葦のやうに 私の心は弱弱しく いつも恐れにふるへてゐる 女よ おまへの美しい精悍の右腕で 私のからだをがつしりと抱いてくれ このふるへる病気の心を しづかにしづかになだめてくれ ただ抱きしめてくれ私のからだを ひつたりと肩によりそひなが…

沖を眺望する

ここの海岸には草も生えない なんといふさびしい海岸だ かうしてしづかに浪を見てゐると 浪の上に浪がかさなり 浪の上に白い夕方の月がうかんでくるやうだ ただひとり出でて磯馴れ松の木をながめ 空にうかべる島と船とをながめ 私はながく手足をのばして寝こ…

寝台を求む

どこに私たちの悲しい寝台があるか ふつくりとした寝台の 白いふとんの中にうづくまる手足があるか 私たち男はいつも悲しい心でゐる 私たちは寝台をもたない けれどもすべての娘たちは寝台をもつ すべての娘たちは 猿に似たちひさな手足をもつ さうして白い…

薄暮の部屋

つかれた心臓は夜《よる》をよく眠る 私はよく眠る ふらんねるをきたさびしい心臓の所有者だ なにものか そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ児 寒さにかじかまる蠅のなきごゑ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。 私はかなしむ この白つぽけた室内の光線…

幻の寝台

凡例

一。第一詩集『月に吠える』を出してから既に六年ほど経過した。この長い間私は重に思索生活に没頭したのであるが、かたはら矢張詩を作つて居た。そこで漸やく一冊に集つたのが、この詩集『青猫』である。 何分にも長い間に少し宛書いたものである故、詩の情…

◎ 私の情緒は、激情《パツシヨン》といふ範疇に属しない。むしろそれはしづかな霊魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聴く横笛のひびきである。 ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反対…

青猫

目次 序 凡例 幻の寝台 薄暮の部屋 寝台を求む 沖を眺望する 強い腕に抱かる 群集の中を求めて歩く その手は菓子である 青猫 月夜 春の感情 野原に寝る 蠅の唱歌 恐ろしく憂鬱なる 憂鬱なる桜 憂鬱なる花見 夢にみる空家の庭の秘密 黒い風琴 憂鬱の川辺 仏の…

かまくら

年賀状 私が年賀状を書いているときにいた場所は、岩手の山間の鄙びた温泉街でした。 最近は年賀状に、俳句や和歌を書いて送っているのですが、ここ半年ほど感性が弱っていて、絵画や彫刻を見ても感じるところ少なく、自然という創造の源泉からも離れている…

新年 ノッソノッソ

新年 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 私事ですが昨年の後半からは色々と疲弊することが続いており、コメント等対する返答が滞っているのですが、決して読んでいないのではなくHPなど訪問させて頂いては色々と考えさせられ…

歌のpickup(家族について)

石川啄木さんの歌の中から、家族・友人に関する歌を数点選びました。 父 母 兄弟姉妹 妻子 友人 父 ふるさとの父の咳《せき》する度《たび》に斯《か》く 咳の出《い》づるや 病《や》めばはかなし よく怒る人にてありしわが父の 日ごろ怒らず 怒れと思ふ か…

極光

懺悔者の背後には美麗な極光がある。 目次に戻る ルビは《》で示した。 旧字体は新字体に直した。 親本:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 (昭和50年) 初出:「蝶を夢む」新潮社(大正12年)

Omega の瞳

死んでみたまへ、屍蝋の光る指先から、お前の霊がよろよろとして昇発する。その時お前は、ほんたうにおめがの青白い瞳《め》を見ることができる。それがお前の、ほんたうの人格であつた。 ひとが猫のやうに見える。 目次に戻る

放火、殺人、窃盗、夜行、姦淫、およびあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜において光る柳の樹下に。 そもそも柳が電気の良導体なることを、最初に発見せるもの先祖の中にあり。 手に兇器をもつて人畜の内臓を電裂せんとする兇賊がある。 かざされた…