2006-01-01から1年間の記事一覧

松葉に光る 詩集後篇

この章に集めた詩は、「月に吠える」の前半にある「天上縊死」「竹と哀傷」等の作と同時代のもので、私の詩風としては極めて初期のものに属する。すべて「月に吠える」前派の傾向と見られたい。但し内八篇は同じ詩集から再録した。

波止場の烟

野鼠は畠にかくれ 矢車草は散り散りになつてしまつた 歌も 酒も 恋も 月も もはやこの季節のものでない わたしは老いさらばつた鴉のやうに よぼよぼとして遠国の旅に出かけて行かう さうして乞食どものうろうろする どこかの遠い港の波止場で 海草の焚けてる…

農夫

海牛のやうな農夫よ 田舎の家根には草が生え、夕餉《ゆふげ》の烟ほの白く空にただよふ。 耕作を忘れたか肥つた農夫よ 田舎に飢饉は迫り 冬の農家の荒壁は凍つてしまつた。 さうして洋燈《らんぷ》のうす暗い厨子のかげで 先祖の死霊がさむしげにふるへてゐ…

まづしき展望

まづしき田舎に行きしが かわける馬秣《まぐさ》を積みたり 雑草の道に生えて 道に蠅のむらがり くるしき埃のにほひを感ず。 ひねもす疲れて畔《あぜ》に居しに 君はきやしやなる洋傘《かさ》の先もて 死にたる蛙を畔に指せり。 げにけふの思ひは悩みに暗く …

商業

商業は旗のやうなものである 貿易の海をこえて遠く外国からくる船舶よ あるいは綿や瑪瑙をのせ 南洋 亞細亞の島島をめぐりあるく異国のまどろすよ。 商業の旗は地球の国国にひるがへり 自由の領土のいたるところに吹かれてゐる。 商人よ 港に君の荷物は積ま…

かつて信仰は地上にあつた

でうすはいすらええるの野にござつて 悪しき大天狗小天狗を退治なされた。 「人は麦餠《むぎもち》だけでは生きないのぢや」 初手の天狗が出たとき 泥薄《でうす》如来の言はれた言葉ぢや これぢやで皆様 ひとはたましひが大事でござらう。 たましひの罪を洗…

涅槃

花ざかりなる菩提樹の下 密林の影のふかいところで かのひとの思惟《おもひ》にうかぶ 理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神秘をおもふ。 涅槃は熱病の夜あけにしらむ 青白い月の光のやうだ 憂鬱なる 憂鬱なる あまりに憂鬱なる厭世思想の 否定の、絶望の…

僕等の親分

剛毅な慧捷の視線でもつて もとより不敵の彼れが合図をした 「やい子分の奴ら!」 そこで子分は突つぱしり 四方に気をくばり めいめいのやつつける仕事を自覚した。 白昼商館に爆入し 街路に通行の婦人をひつさらつた かれらの事業は奇蹟のやうで まるで礼儀…

絶望の逃走

おれらは絶望の逃走人だ おれらは監獄やぶりだ あの陰鬱な柵をやぶつて いちどに街路へ突進したとき そこらは叛逆の血みどろで 看守は木つ葉のやうにふるへてゐた。 あれからずつと おれらは逃走してやつて来たのだ あの遠い極光地方で 寒ざらしの空の下を …

野景

弓なりにしなつた竿の先で 小魚がいつぴき ぴちぴちはねてゐる おやぢは得意で有頂天だが あいにく世間がしづまりかへつて 遠い牧場では 牛がよそつぽをむいてゐる。 目次に戻る

馬車の中で

馬車の中で 私はすやすやと眠つてしまつた。 きれいな婦人よ 私をゆり起してくださるな 明るい街燈の巷をはしり すずしい緑蔭の田舎をすぎ いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。 ああ蹄の音もかつかつとして 私はうつつにうつつを追ふ きれいな婦人…

閑雅な食慾

松林の中を歩いて あかるい気分の珈琲店《かふえ》をみた 遠く市街を離れたところで だれも訪づれてくるひとさへなく 松間の かくされた 追憶の 夢の中の珈琲店《かふえ》である。 をとめは恋恋の羞をふくんで あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる…

野鼠

どこに私らの幸福があるのだらう 泥土《でいど》の砂を掘れば掘るほど 悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか 春は幔幕のかげにゆらゆらとして 遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。 どこに私らの恋人があるのだらう ばうばうとした野原に立つて口…

寄生蟹のうた

潮みづのつめたくながれて 貝の歯はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた ああ ここにはもはや友だちもない恋もない 渚にぬれて亡霊のやうな草を見てゐる その草の根はけむりのなかに白くかすんで 春夜のなまぬるい恋びとの吐息のやうです。 おぼろにみえ…

あかるい屏風のかげにすわつて あなたのしづかな寝息をきく。 香炉のかなしい烟のやうに そこはかとたちまよふ 女性のやさしい匂ひをかんずる。 かみの毛ながきあなたのそばに 睡魔のしぜんな言葉をきく あなたはふかい眠りにおち わたしはあなたの夢をかん…

家畜

花やかな月が空にのぼつた げに大地のあかるいことは。 小さな白い羊たちよ 家の屋根の下にお這入り しづかに涙ぐましく動物の足調子をふんで。 目次に戻る

蟾蜍

雨景の中で ぽうとふくらむ蟾蜍 へんに膨大なる夢の中で お前の思想は白くけぶる。 雨景の中で ぽうと呼吸《いき》をすひこむ霊魂 妙に幽明な宇宙の中で 一つの時間は消抹され 一つの空間は拡大する。 目次に戻る

眺望

旅の記念として、室生犀星に さうさうたる高原である 友よ この高きに立つて眺望しよう。 僕らの人生について思惟することは ひさしく既に転変の憂苦をまなんだ ここには爽快な自然があり 風は全景にながれてゐる。 瞳《め》をひらけば 瞳は追憶の情侈になづ…

海鳥

ある夜ふけの遠い空に 洋燈のあかり白白ともれてくるやうにしる かなしくなりて家家の乾場をめぐり あるいは海岸にうろつき行き くらい夜浪のよびあげる響をきいてる。 しとしととふる雨にぬれて さびしい心臓は口をひらいた ああ かの海鳥はどこへ行つたか…

石竹と青猫

みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍体は眠る その黒髮は床にながれて 手足は力なく投げだされ 寝台の上にあふむいてゐる。 この密室の幕のかげを ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの青ざめたふしぎの情慾 そはむしかへす麝香になやみ くるしく は…

黒い蝙蝠

わたしの憂鬱は羽ばたきながら ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。 ああなんといふ幻覚だらう とりとめもない怠惰な日和が さびしい涙をながしてゐる。 もう追憶の船は港をさり やさしい恋人の捲毛もさらさらに乾いてしまつた 草場に昆虫のひげはふるへて…

春の芽生

私は私の腐蝕した肉体にさよならをした そしてあたらしくできあがつた胴体からは あたらしい手足の芽生が生えた それらはじつにちつぽけな あるかないかも知れないぐらゐの芽生の子供たちだ それがこんな麗らかの春の日になり からだ中でぴよぴよと鳴いてゐ…

その襟足は魚である

ふかい谷間からおよぎあがる魚類のやうで いつもしつとり濡れて青ざめてゐるながい襟足 すべすべと磨きあげた大理石の柱のやうで まつすぐでまつ白で それでゐて恥かしがりの襟足 このなよなよとした襟くびのみだらな曲線 いつもおしろいで塗りあげたすてき…

その手は菓子である

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ 指なんかはまことにほつそりとしてしながよく まるでちひさな青い魚類のやうで やさしくそよそよとうごいてゐる様子はたまらない ああその手の上…

灰色の道

日暮れになつて散歩する道 ひとり私のうなだれて行く あまりにさびしく灰色なる空の下によこたふ道 あはれこのごろの夢の中なるまづしき乙女 その乙女のすがたを恋する心にあゆむ その乙女は薄黄色なる長き肩掛けを身にまとひて 肩などはほつそりとやつれて…

陸橋

陸橋を渡つて行かう 黒くうづまく下水のやうに もつれる軌道の高架をふんで はるかな落日の部落へ出よう。 かしこを高く 天路を翔けさる鳥のやうに ひとつの架橋を越えて跳躍しよう。 目次に戻る

内部への月影

憂鬱のかげのしげる この暗い家屋の内部に ひそかにしのび入り ひそかに壁をさぐり行き 手もて風琴の鍵盤に触れるはたれですか。 そこに宗教のきこえて しづかな感情は室内にあふれるやうだ。 洋燈《らんぷ》を消せよ 洋燈《らんぷ》を消せよ 暗く憂鬱な部屋…

群集の中を求めて歩く

私はいつも都会をもとめる 都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる。 群集は大きな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぷだ。 ああ ものがなしき春のたそがれどき 都会の入り混みたる建…

騒擾

重たい大きな翼《つばさ》をばたばたして ああなんといふ弱弱しい心臓の所有者だ 花瓦斯のやうな明るい月夜に 白くながれてゆく生物の群をみよ。 そのしづかな方角をみよ この生物のもつひとつの切なる感情をみよ 明るい花瓦斯のやうな月夜に ああなんといふ…

冬の海の光を感ず

遠くに冬の海の光をかんずる日だ さびしい大浪《おほなみ》の音《おと》をきいて心はなみだぐむ。 けふ沖の鳴戸を過ぎてゆく舟の乗手はたれなるか その乗手等の黒き腕《かひな》に浪の乗りてかたむく ひとり凍れる浪のしぶきを眺め 海岸の砂地に生える松の木…