津村信夫

飯山

正受庵《しやうじゆあん》は普請中であつた 屋根の上に一人の若い大工がゐあ。庵主は不在で、やがて大工は降りて来て、私を裏の宝物倉に導いた。そのあたりから、山麓の薄の穂の光るのがよく見えた。 墓所もあつた。美しい名の童女《どうぢよ》の碑もまじつ…

吹雪

それは 冬日に暮れた 何処の町の停車場であつたか この線路《レール》は北にむけて涯《はて》しがない 新しい列車がつく 線路《レール》の上に粉《こ》をふらせながら 汽車《かま》の火熱《くわねつ》もねむたげだ 車窓から 少年の頬が三つあらはれる 正しい…

煤《すす》けた厨《くりや》の明り窓の下に 玉葱と人参がひつそりと置いてあつた 帰つて来た子供が又遊びに出て行つた 蛾がきて電燈の球を一周《ひとまは》りした 湯が滾《たぎ》つてゐた 竈《かまど》の火が赤かつた 往還《わうくわい》の夕方を 篠《しの》…

――戸隠の炉端 主人《あるじ》は最後に お社《やしろ》のうしろで真紅《まつか》な鳥を見た さう云つて話すと一息いれた ――もう話はみんなです 山がお気に入りましたか ――もつと話して下さい 自然のことを ――さてなんだらう 自然と云つて 私達初め まるで立木…

戸隠びと

善光寺の町で 鮭を一疋《いつぴき》さげた老人に行き逢つた 枯れた薄を着物につけて それは山から降りてきた人 薪を背負つてきた男 「春になつたらお出かけなして」 月の寒い晩 薪を売つて 鮭を買つた 老人は小指が一本足りなかつた 目次に戻る

戸隠姫

山は鋸《のこぎり》の葉の形 冬になれば 人は往かず 峰の風に 屋根と木が鳴る こうこうと鳴ると云ふ 「そんなに こうこうつて鳴りますか」 私の問ひに 娘は皓《しろ》い歯を見せた 遠くの薄は夢のやう 「美しい時ばかりはございません」 初冬《しよとう》の…

早春

――犀星師の故郷にて 池田町歩みをとめと逢はず雪ふるなり そのかみの武家の屋敷が 門《かど》のべに媼《おうな》しはぶき 円き肩傘してゆき交ふ 雪ふると見れば また忽《たちま》ちに晴れゆく青空《そら》は あはれ 北国びとの微笑か 池田町歩み春ともしらず…

緑葉

隧道《トンネル》が見える 今し 小さな列車が隧道から出てくる 汽車の屋根の その向ふに見える青葉のかがやき 汽笛が鳴る 私の部屋の窓硝子も鳴る 私の単調が一瞬破れる 目の鋭い少女が庭に出て 楢《なら》の木蔭から汽車を見てゐる その娘を 姉さんと呼ぶ男…

風土によせて

小粒な葡萄《ぶだう》 浅間の葡萄 私は もう 幾年もたべたことがない 初夏の火山の麓を走る 汽車の歩みは まことにのろい 岩石の間から 白雲の湧くやうな―― そんな壮《さか》んな風景の中で 汽車は ごくんと急に停つた 真昼の静寂《しじま》 緑の木蔭で 杜鵑…

鄙の家

九州の旅に出て 私は油布《ゆふ》の嶺を越えた 嶺の霧は深かつた 麓の村の 霧のなかで 娘が水を汲んでゐた いづこの農家の庭にも咲く 紅い叢花《くさばな》 霧のなかで 娘が花を摘んでゐた 身も心も淡く濡れそぼつて 村のはづれでは 若者の歌が 夕べの雲のや…

魚を喰べる

山に来て 小さき宿り その夕餉《ゆふげ》の膳に魚《うを》を喰《たう》べる 荒塩の舌にきびしく 小さき骨の歯に触れるども 何事もなき夕暮なれば また 何ごとの口惜しくもあらず この家のぢぢもばばも なほ 永く生き給へと 波青き日本海は見ずとも その荒海…

みづ絵

柔和な動物 あの山羊達は どうして あんな老年《としより》じみた おどけたお面を被つてゐるのだらう 気永《きなが》に しかも まじめくさつて 草を食《は》んでは また首を上げて私を見る 日が照つてゐる草の上 動物の匂ひが漂つてきて どうかすると 私はこ…

木の実

木に梯子をかけて 女が一人 登つてゐる 胸高な女である 手に籠を提《さ》げてゐる 木の果《み》をとつてゐるのか この夕べ 空に 金星が光つてゐる 果《み》をとるもの 木の下で 前掛をひろげてゐる子供 ああ 私は この豊かな風景の中に 結実の意味を読み 収…

旅行者

冬枯れの丘に 日がてれば 狐色の風景の中に 又 人影が立つてゐる 知つてゐるだらう あれは 旅を行く人の姿だ その人の一日を 木と花と 少しばかり 友情の雲が つれない旅点《りよてん》の寝床が かたちづくつてゐる 藪陰に 椿の木を見れば その堅い蕾の心を…

稲妻

――田舎の絵本から 堤の上で村人が立話をしてゐる お腹の大きな女が お風呂を貰《もら》ひに通つて行く 薄《すすき》が穂に出て 川音がきこえる 風が出てきたのかしら 薄の穂が倒れかかる 立話の村人が影絵になつてしまふ 目次に戻る

田舎

面輪《おもわ》が鹿に肖《に》た媼《おうな》が 牛若髷の娘をつれて 田舎の道をあるいて行つた 私の抒情《じよじやう》する ふるさとでは 梅の花が咲いて 少年の読書の声がきこえてゐる 目次に戻る

夕暮

食卓の上に燈《ひ》を置いて 母親のエプロン着の姿が しばらく窓際に見られた 昔 三人の子供が 円い卓をかこんだとき 皆《みな》の小さな手は三つ合せても 父の手にかなはなかつたがーー とき折 一人の子供の姿が見喪はれた 父や母の心のなかで 家族が集まる…

南で

南で知つた海 聞いた唄 烏賊《いか》釣船と白い帆船 これがこの国の人情か 海寺のお嬢さん 言葉かずが少なくて 耳朶《みみたぶ》が大きく 空の蒼い日は いつも微笑んでゐた 目次に戻る

或る遍歴から

目次 その一 南で 夕暮 その二 田舎 稲妻 旅行者 木の実 みづ絵 魚を喰べる 鄙の家 風土によせて 緑葉 早春 戸隠姫 戸隠びと 炉 厨 吹雪 飯山 その三 雪尺余 はるかなものに 詩人の枕 晩夏 月 晩秋 水ぎは 熊 猟館 昼を愛する歌 父と娘 荒地野菊 冬の夜道 冬…

あとがき

「父のゐる庭」は私の二つ目の詩集である。 書物を編むことの甚だ不手際な私は「愛する神の歌」を出してからこちら、ついつい七年もの長い年月を閲してしまつた。作品もその間かなりの数になつた。従つて、こんど詩集に収録するにあたつても、前後の作品に自…

父が庭にゐる歌

父を喪《うしな》つた冬が あの冬の寒さが また 私に還《かへ》つてくる 父の書斎を片づけて 大きな写真を飾つた 兄と二人で 父の遺物を 洋服を分けあつたが ポケツトの紛悦《はんかち》は そのままにして置いた 在《あ》りし日 好んで植ゑた椿の幾株が あへ…

冬に……

冬に 木枯の つと 庭の外をすぐる夜なり 山の上《へ》の人葬《はふ》り場に 父のおん骨を拾ひし夜なり 軽々と ああ軽々と 我が手に抱かれたまひしものか 父のおん骨 かたみに兄と抱きて 山をくだれば 冬の靄《もや》たちこめて 目の下に 燈火《ともしび》う…

幼い嘆き

子供のときから 不器用だつた 最初は 幼児の遊びの中で それを発見《みいだ》して 哀しかつた 急に沈黙したり はにかんだりした 父が 私の不器用を叱ると きまつて 私は泣いたものだ 父自らが 若干不器用な人だつたから 草いきれ 空の眺め 私が坐《すわ》る…

紀の国

「紀《き》の国ぞ はや 湊《みなと》につきたり」 舟のをぢ かたみに呼びかひ うつとりと 眸《ひとみ》疲れて 父に手をひかれし心地 犬の先曳《ひ》く車もあれば 海の辺《べ》に 柑子《かうじ》の実光りて その枝のたわわなる下《もと》 かいくぐり かいくぐ…

起臥

面影にたちくる父に 語らまほし 今日の日のみいくさ 湧きあがる日の本の勝鬨《かちどき》 亡き父は フランダースの戦もしらず ふたとせの音 しもつき半ば 眉白き齢《よわひ》にもあれで みまかりぬ 短きやまひに 祖父《おほちち》の顔みしらぬ 稚子ひとり 小…

野火

天ざかる鄙《ひ》にしあれば ある宵は 山に煙みゆ 白梅のふふむ村里 琴さげて をとめの帰り路 わらべ叱る媼の声も 百《もも》年のむかしさながら この身おく 草の臥屋に 妻のもる夕餉の飯《いひ》の 白々と息はく ころは たち出《いで》て また見るとしもな…

早春

浅い春が 好きだつた―― 死んだ父の 口癖の そんな季節の 訪れが 私に 近頃では 早く来る ひと月ばかり 早く来る 藪陰から 椿の蕾が さし覗く 私の膝に 女の赤児 爐《ろ》の火が とろとろ燃えてゐる 山には 雪がまだ消えない 椿を剪《き》つて 花瓶にさす 生…

海の香《か》のする 御社《みやしろ》の庭に 母に抱かれて 私の子供が遊んでゐる その子供の肩に 鳩がとまる 鳩がとまる 一つ 二つ 三つ そして一つ飛び また二つ飛び去つた 私はこの子のために祈る 父として ああそれは 私の久しい間《あいだ》の願望 吾《…

父はよく私を 穴のあくほど しげしげ見た もう 成人してからも 「お前はよく肥《ふと》つてゐる」 さう云つては 手や頬を抓《つね》つた 私はそれが嫌だつた 煩《うるさ》いとさへ考へた こんな 昔のことどもが 今日 思ひ出されたのも ほかでもない 夜ふけの…

月夜

姉は二十九で死んだ つまり その人の 二十九歳までしか 私は知らない 故郷の 古い庭が いい時候になると 姉はそこの椅子に坐つてゐた 花が好きだつた 物の成長が好きだつた それだのに 自分の生命は あんなに 気忙《きせは》しく 燃やしてしまつた 花瓣《く…