序
◎
私の情緒は、激情《パツシヨン》といふ範疇に属しない。むしろそれはしづかな霊魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聴く横笛のひびきである。
ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反対する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは装飾音である。私は感覚に酔ひ得る人間でない。私の真に歌はうとする者は別である。それはあの艶めかしい一つの情緒――春の夜に聴く横笛の音――である。それは感覚でない、激情でない、興奮でない、ただ静かに霊魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い実在への涙ぐましいあこがれである。
およそいつの時、いつの頃よりしてそれが来れるかを知らない。まだ幼《いと》けなき少年の頃よりして、この故しらぬ霊魂の郷愁になやまされた。夜床はしろじろとした涙にぬれ、明くれば鶏《にはとり》の声に感傷のはらわたをかきむしられた。日頃はあてもなく異性を恋して春の野末を馳せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「恋を恋する人」の愁をうたつた。
げにこの一つの情緒は、私の遠い気質に属してゐる。そは少年の昔よりして、今も猶私の夜床の枕におとづれ、なまめかしくも涙ぐましき横笛の音色をひびかす、いみじき横笛の音にもつれ吹き、なにともしれぬ哀愁の思ひにそそられて書くのである。
かくて私は詩をつくる。燈火の周囲にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる実在の本質に触れようとして、むなしくかすてらの脆い翼《つばさ》をばたばたさせる。私はあはれな空想児、かなしい蛾虫の運命である。
されば私の詩を読む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聴くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上学」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――霊魂の実在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音楽」である。「詩は何よりもまづ音楽でなければならない」といふ、その象徴詩派の信条たる音楽である。
◎
感覚的鬱憂性! それもまた私の遠い気質に属してゐる。それは春光の下に群生する桜のやうに、或いはまた菊の酢えたる匂ひのやうに、よにも鬱陶しくわびしさの限りである。かくて私の生活は官能的にも頽廃の薄暮をかなしむであらう。げに憂鬱なる、憂鬱なるそれはまた私の叙情詩の主題《てま》である。
とはいへ私の最近の生活は、さうした感覚的のものであるよりはむしろより多く思索的の鬱憂性に傾いてゐる。(たとへば集中「意志と無明」の篇中に収められた詩篇の如きこの傾向に属してゐる。これらの詩に見る宿命論的な暗鬱性は、全く思索生活の情緒に映じた残像である。)かく私の詩の或るものは、おほむね感覚的鬱憂性に属し、他の或るものは思索的鬱憂性に属してゐる。しかしその何れにせよ、私の真に伝へんとするリズムはそれでない。それらの「感覚的なもの」や「観念的なもの」でない。それらのものは私の詩の衣装にすぎない。私の詩の本質――よつて以てそれが詩作の動機となるところの、あの香気の高い心悸の鼓動――は、ひとへにただあのいみじき横笛の音の魅惑にある。あの実在の世界への、故しらぬ思慕の哀傷にある。かく私は歌口を吹き、私のふしぎにして艶めかしき生命《いのち》をかなでようとするのである。
されば私の詩風には、近代印象派の詩に見る如き官能の耽溺的靡乱がない。或いはまた重鬱にして息苦しき観念詩派の圧迫がない。むしろ私の詩風はおだやかにして古風である。これは情想のすなほにして殉情のほまれ高きを尊ぶ。まさしく浪漫主義の正系を踏む情緒詩派の流れである。
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「詩の目的は真理や道徳を歌ふのでない。詩はただ詩のための表現である。」と言つたボドレエルの言葉ほど、芸術の本質を徹底的に観破したものはない。我等は詩歌の要素と鑑賞とから、あらゆる不純の概念を駆逐するであらう。「酔」と「香気」と、ただそれだけの芳烈な幸福を詩歌の「最後のもの」として決定する。もとより美の本質に関して言へば、どんな詭弁もそれの附加を許さない。
◎
かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとつての神秘でもなく信仰でもない。また況んや「生命がけの仕事」であつたり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。
生活の沼地に鳴く青鷺の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。
◎
詩はいつも時流の先導に立つて、来るべき世紀の感情を最も鋭敏に触知するものである。されば詩集の真の評価は、すくなくとも出版後五年、十年を経て決せらるべきである。五年、十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の今現に居る位地に追ひつくであらう。即ち詩は、発表することのいよいよ早くして、理解されることのいよいよ遅きを普通とする。かの流行の思潮を追つて、一時の浅薄なる好尚に適合する如きは、我等詩人の卑しみて能はないことである。
詩が常に俗衆を眼下に見くだし、時代の空気に高く超越して、もつとも高潔清廉の気風を尊ぶのは、それの本質に於て全く自然である。
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詩を作ること久しくして、益益詩に自信をもち得ない。私の如きものは、みじめなる青猫の夢魔にすぎない。
凡例
一。第一詩集『月に吠える』を出してから既に六年ほど経過した。この長い間私は重に思索生活に没頭したのであるが、かたはら矢張詩を作つて居た。そこで漸やく一冊に集つたのが、この詩集『青猫』である。
何分にも長い間に少し宛書いたものである故、詩の情想やスタイルの上に種々の変移があつて、一冊の詩集に統一すべく、所所気分の貫流を欠いた怨みがある。けれども全体として言へば、矢張書銘の『青猫』といふ感じが、一巻のライト・モチーヴとして著者の個性的気稟を高調して居るやに思ふ。
二。集中の詩篇は、それぞれの情想やスタイルによつて、大体之れを六章に類別した。即ち「幻の寝台」、「憂鬱なる桜」、「さびしい青猫」、「閑雅な食慾」、「意志と無明」、「艶めける霊魂」他詩一篇である。この分類の中、最初の二章(「幻の寝台」、「憂鬱なる桜」)は、主として創作年代の順序によつて配列した。此等の章中に収められた詩篇は、概ね雑誌『感情』に掲載したものであるから、皆今から数年以前の旧作である。『感情』が廃刊されてからずゐぶん久しい間であるが、幸ひに残本の合本があつて集録することを得た。同時代に他の雑誌へ寄稿したものは、すべて皆散佚して世に問ふべき機縁もない。
「さびしい青猫」以下の章に収められた詩は、何れもこの二三年来に於ける最近の収穫である。但し排列の順序は年代によらず、主として情想やスタイルの類別によつた。
三。私の第二詩集は、はじめ『憂鬱なる』とするつもりであつた。それはずつと以前から『感情』の裏表紙で予告広告を出して置いた如くである。然るにその後『憂鬱なる××』といふ題の小説が現はれたり、同じやうな書銘の詩集が出版されたりして、この「憂鬱」といふ語句の官能的にきらびやかな触感が、当初に発見された時分の鮮新な香気を稀薄にしてしまつた。そればかりでなく、私の詩風もその後によほど変転して、且つ生活の主題が他方へ移つて行つた為、今ではこの「取つて置きの書銘」を用ゐることが不可能になつた始末である。予告の破約を断るため、ここに一言しておく。
四。とにかくこの詩集は、あまりに長く出版を遅れすぎた。そのため書銘ばかりでなく、内容の方でも、いろいろ「持ち腐れ」になつてしまつた。その当時の詩壇から見て、可成に新奇で鮮新な発明であつた特種のスタイルなども、今日では詩壇一般の類型となつて居て、むしろ常套の臭気が鼻につくやうにさへなつて居る。さういふ古い自分の詩を、今更ら今日の詩壇に向つて公表するのは、ふしぎに理由のない羞恥と腹立たしさとを感ずるものである。
五。附録の論文「自由詩のリズムに就て」は、この書物の跋と見るべきである。私の詩の読者は勿論、一般に「自由詩を作る人」、「自由詩を読む人」、「自由詩を批評する人」、「自由詩を論議する人」特に就中「自由詩が解らないと言ふ人」たちに読んでもらふ目的で書いた。自由詩人としての我々の立場が、之れによつて幾分でも一般の理解を得ば本望である。
薄暮の部屋
つかれた心臓は夜《よる》をよく眠る
私はよく眠る
ふらんねるをきたさびしい心臓の所有者だ
なにものか そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ児
寒さにかじかまる蠅のなきごゑ
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。
私はかなしむ この白つぽけた室内の光線を
私はさびしむ この力のない生命の韻動を。
恋びとよ
お前はそこに坐つてゐる 私の寝台のまくらべに
恋びとよ お前はそこに坐つてゐる。
お前のほつそりした頸すぢ
お前のながくのばした髪の毛
ねえ やさしい恋びとよ
私のみじめな運命をさすつておくれ
私はかなしむ
私は眺める
そこに苦しげなるひとつの感情
病みてひろがる風景の憂鬱を
ああ さめざめたる部屋の隅から つかれて床をさまよふ蠅の幽霊
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。
恋びとよ
私の部屋のまくらべに坐るをとめよ
お前はそこになにを見るのか
わたしについてなにを見るのか
この私のやつれたからだ 思想の過去に残した影を見てゐるのか
恋びとよ
すえた菊のにほひを嗅ぐやうに
私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その青ざめた信仰を
よし二人からだをひとつにし
このあたたかみあるものの上にしも お前の白い手をあてて 手をあてて。
恋びとよ
この閑寂な室内の光線はうす紅く
そこにもまた力のない蠅のうたごゑ
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。
恋びとよ
わたしのいぢらしい心臓は お前の手や胸にかじかまる子供のやうだ
恋びとよ
恋びとよ。
寝台を求む
どこに私たちの悲しい寝台があるか
ふつくりとした寝台の 白いふとんの中にうづくまる手足があるか
私たち男はいつも悲しい心でゐる
私たちは寝台をもたない
けれどもすべての娘たちは寝台をもつ
すべての娘たちは 猿に似たちひさな手足をもつ
さうして白い大きな寝台の中で小鳥のやうにうづくまる
すべての娘たちは 寝台の中でたのしげなすすりなきをする
ああ なんといふしあはせの奴らだ
この娘たちのやうに
私たちもあたたかい寝台をもとめて
私たちもさめざめとすすりなきがしてみたい。
みよ すべての美しい寝台の中で 娘たちの胸は互にやさしく抱きあふ
心と心と
手と手と
足と足と
からだとからだとを紐にてむすびつけよ
心と心と
手と手と
足と足と
からだとからだとを撫でることによりて慰めあへよ
このまつ白の寝台の中では
なんといふ美しい娘たちの皮膚のよろこびだ
なんといふいぢらしい感情のためいきだ。
けれども私たち男の心はまづしく
いつも悲しみにみちて大きな人類の寝台をもとめる
その寝台はばね仕掛けでふつくりとしてあたたかい
まるで大雪の中にうづくまるやうに
人と人との心がひとつに解けあふ寝台
かぎりなく美しい愛の寝台
ああ どこに求める 私たちの悲しい寝台があるか
どこに求める
私たちのひからびた醜い手足
このみじめな疲れた魂の寝台はどこにあるか。
強い腕に抱かる
風にふかれる葦のやうに
私の心は弱弱しく いつも恐れにふるへてゐる
女よ
おまへの美しい精悍の右腕で
私のからだをがつしりと抱いてくれ
このふるへる病気の心を しづかにしづかになだめてくれ
ただ抱きしめてくれ私のからだを
ひつたりと肩によりそひながら
私の弱弱しい心臓の上に
おまへのかはゆらしい あたたかい手をおいてくれ
ああ 心臓のここのところに手をあてて
女よ
さうしておまへは私に話しておくれ
涙にぬれたやさしい言葉で
「よい子よ
恐れるな なにものをも恐れなさるな
あなたは健康で幸福だ
なにものがあなたの心をおびやかさうとも あなたはおびえてはなりません
ただ遠方をみつめなさい
めばたきをしなさるな
めばたきをするならば あなたの弱弱しい心は鳥のやうに飛んで行つてしまふのだ
いつもしつかりと私のそばによりそつて
私のこの健康な心臓を
このうつくしい手を
この胸を この腕を
さうしてこの精悍の乳房をしつかりと。」
群集の中を求めて歩く
私はいつも都会をもとめる
都会のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ
ああ ものがなしき春のたそがれどき
都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに楽しいことか
みよこの群集のながれてゆくありさまを
ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり
浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ
人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない
ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いて行くことか
ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影
たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは涙ぐましくなるやうだ。
うらがなしい春の日のたそがれどき
このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで
どこへどうしてながれ行かうとするのか
私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影
ただよふ無心の浪のながれ
ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
浪の行方は地平にけむる
ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。
その手は菓子である
そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそりとしてしながよく
まるでちひさな青い魚類のやうで
やさしくそよそよとうごいてゐる様子はたまらない
ああ その手の上に接吻がしたい
そつくりと口にあてて喰べてしまひたい
なんといふすつきりとした指先のまるみだらう
指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ
その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。
かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指
すつぽりとしたまつ白のほそながい指
ぴあのの鍵盤をたたく指
針をもて絹をぬふ仕事の指
愛をもとめる肩によりそひながら
わけても感じやすい皮膚のうへに
かるく爪先をふれ
かるく爪でひつかき
かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき
そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指
おすましで意地悪のひとさし指
卑怯で快活なこゆびのいたづら
親指の肥え太つたうつくしさと その暴虐なる野蛮性
ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき
すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい いつまでたつてもしやぶつてゐたい
その手の甲はわつぷるのふくらみで
その手の指は氷砂糖のつめたい食慾
ああ この食慾
子供のやうに意地のきたない無恥の食慾。
青猫
この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ桜の並木
そこにも無数の雀がさへづつてゐるではないか。
ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を恋しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。
春の感情
ふらんすからくる烟草のやにのにほひのやうだ
そのにほひをかいでゐると気がうつとりとする
うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情
つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ
春がくるときのよろこびは
あらゆるひとのいのちをふきならす笛のひびきのやうだ
ふるへる めづらしい野路のくさばな
おもたく雨にぬれた空気の中にひろがるひとつの音色
なやましき女のなきごゑはそこにもきこえて
春はしつとりとふくらんでくるやうだ。
春としなれば山奥のふかい森の中でも
くされた木株の中でもうごめくみみずのやうに
私のたましひはぞくぞくとして菌を吹き出す
たとへば毒だけ へびだけ べにひめぢのやうなもの
かかる菌の類はあやしげなる色香をはなちて
ひねもすさびしげに匂つてゐる。
春がくる 春がくる
春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ
そこにもここにも
ぞくぞくとしてふきだす菌 毒だけ
また藪かげに生えてほのかに光るべにひめぢの類。
蠅の唱歌
春はどこまできたか
春はそこまできて桜の匂ひをかぐはせた
子供たちのさけびは野に山に
はるやま見れば白い浮雲がながれてゐる。
さうして私の心はなみだをおぼえる
いつもおとなしくひとりで遊んでゐる私のこころだ
この心はさびしい
この心はわかき少年の昔より 私のいのちに日影をおとした
しだいにおほきくなる孤独の日かげ
おそろしい憂鬱の日かげはひろがる。
いま室内にひとりで坐つて
暮れゆくたましひの日かげをみつめる
そのためいきはさびしくして
とどまる蠅のやうに力がない
しづかに暮れてゆく春の夕日の中を
私のいのちは力なくさまよひあるき
私のいのちは窓の硝子にとどまりて
たよりなき子供等のすすりなく唱歌をきいた。
恐ろしく憂鬱なる
こんもりとした森の木立のなかで
いちめんに白い蝶類が飛んでゐる
むらがる むらがりて飛びめぐる
てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ
みどりの葉のあつぼつたい隙間から
ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼《つばさ》
いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ
ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ
このおもたい手足 おもたい心臓
かぎりなくなやましい物質と物質との重なり
ああ これはなんといふ美しい病気だらう
つかれはてたる神経のなまめかしいたそがれどきに
私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を
つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを
その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに
私の青ざめた屍体のくちびるに
額に 髪に 髪の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに
みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ
むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり
ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集団
ああこの恐ろしい地上の陰影
このなまめかしいまぼろしの森の中に
しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる
その私の心はばたばたと羽ばたきして
小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ
ああこのたへがたく悩ましい性の感覚
あまりに恐ろしく憂鬱なる。
註。「てふ」「てふ」はチヨーチヨーと読むべからず。蝶の原音は「て・
ふ」である。蝶の翼の空気をうつ感覚を音韻に写したものである。
憂鬱なる花見
憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた
桜の枝はいちめんにひろがつてゐる
日光はきらきらとしてはなはだまぶしい
私は密閉した家の内部に住み
日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる
その卵や肉はくさりはじめた
遠く桜のはなは酢え
桜のはなの酢えた匂ひはうつたうしい
いまひとびとは帽子をかぶつて外光の下を歩きにでる
さうして日光が遠くにかがやいてゐる
けれども私はこの暗い室内にひとりで坐つて
思ひをはるかなる桜のはなの下によせ
野山にたはむれる青春の男女によせる
ああいかに幸福なる人生がそこにあるか
なんといふよろこびが輝やいてゐることか
いちめんに枝をひろげた桜の花の下で
わかい娘たちは踊ををどる
娘たちの白くみがいた踊の手足
しなやかにおよげる衣装
ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあつてゐることか
花見のうたごゑは横笛のやうにのどかで
かぎりなき憂鬱のひびきをもつてきこえる。
いま私の心は涙をもてぬぐはれ
閉ぢこめたる窓のほとりに力なくすすりなく
ああこのひとつのまづしき心はなにものの生命《いのち》をもとめ
なにものの影をみつめて泣いてゐるのか
ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで
遠く花見の憂鬱なる横笛のひびきをきく。
夢にみる空家の庭の秘密
その空家の庭に生えこむものは松の木の類
びはの木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの類
さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝
またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂するところの植物
およそ しだ わらび ぜんまい もうせんごけの類
地べたいちめんに重なりあつて這ひまはる
それら青いものの生命《いのち》
それら青いもののさかんな生活
その空家の庭はいつも植物の日影になつて薄暗い
ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ
夜も昼もさよさよと悲しくひくくながれる水の音
またじめじめとした垣根のあたり
なめくぢ へび かへる とかげ類のぬたぬたとした気味わるいすがたをみる。
さうしてこの幽邃な世界のうへに
夜《よる》は青じろい月の光がてらしてゐる
月の光は前栽の植込からしつとりとながれこむ。
あはれにしめやかな この深夜のふけてゆく思ひに心をかたむけ
わたしの心は垣根にもたれて横笛を吹きすさぶ
ああ このいろいろのもののかくされた秘密の生活
かぎりなく美しい影と 不思議なすがたの重なりあふところの世界
月光の中にうかびいづる羊歯《しだ》 わらび 松の木の枝
なめくぢ へび とかげ類の無気味な生活
ああ わたしの夢によくみる このひと住まぬ空家の庭の秘密と
いつもその謎のとけやらぬおもむき深き幽邃のなつかしさよ。
黒い風琴
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ
あなたは黒い着物をきて
おるがんの前に坐りなさい
あなたの指はおるがんを這ふのです
かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。
だれがそこで唱つてゐるの
だれがそこでしんみりと聴いてゐるの
ああこのまつ黒な憂鬱の闇のなかで
べつたりと壁にすひついて
おそろしい巨大の風琴を弾くのはだれですか
宗教のはげしい感情 そのふるへ
けいれんするぱいぷおるがん れくれえむ!
お祈りなさい 病気のひとよ
おそろしいことはない おそろしい時間はないのです
お弾きなさい おるがんを
やさしく とうえんに しめやかに
大雪のふりつむときの松葉のやうに
あかるい光彩をなげかけてお弾きなさい
お弾きなさい おるがんを
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。
ああ まつくろのながい着物をきて
しぜんに感情のしづまるまで
あなたはおほきな黒い風琴をお弾きなさい
おそろしい暗闇の壁の中で
あなたは熱心に身をなげかける
あなた!
ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ。
憂鬱の川辺
川辺で鳴つてゐる
蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい
しぜんに生えてる
するどい ちひさな植物 草本《さうほん》の茎の類はさびしい
私は眼を閉ぢて
なにかの草の根を噛まうとする
なにかの草の汁をすふために 憂愁の苦い汁をすふために
げにそこにはなにごとの希望もない
生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ
梅雨だ
じめじめとした雨の点滴のやうなものだ
しかし ああ また雨! 雨! 雨!
そこには生える不思議の草本
あまたの悲しい羽虫の類
それは憂鬱に這ひまはる 岸辺にそうて這ひまはる
じめじめとした川の岸辺を行くものは
ああこの光るいのちの葬列か
光る精神の病霊か
物みなしぜんに腐れゆく岸辺の草むら
雨に光る木材質のはげしき匂ひ。
仏の見たる幻想の世界
花やかな月夜である
しんめんたる常盤木の重なりあふところで
ひきさりまたよせかへす美しい浪をみるところで
かのなつかしい宗教の道はひらかれ
かのあやしげなる聖者の夢はむすばれる。
げにそのひとの心をながれるひとつの愛憐
そのひとの瞳孔《ひとみ》にうつる不死の幻想
あかるくてらされ
またさびしく消えさりゆく夢想の幸福とその怪しげなるかげかたち
ああ そのひとについて思ふことは
そのひとの見たる幻想の国をかんずることは
どんなにさびしい生活の日暮れを色づくことぞ
いま疲れてながく孤独の椅子に眠るとき
わたしの家の窓にも月かげさし
月は花やかに空にのぼつてゐる。
仏よ
わたしは愛する おんみの見たる幻想の蓮の花弁を
青ざめたるいのちに咲ける病熱の花の香気を
仏よ
あまりに花やかにして孤独なる。
鶏
しののめきたるまへ
家家の戸の外で鳴いてゐるのは鶏《にはとり》です
声をばながくふるはして
さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です
とをてくう、とをるもう、とをるもう。
朝のつめたい臥床《ふしど》の中で
私のたましひは羽ばたきをする
この雨戸の隙間からみれば
よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです
されどもしののめきたるまへ
私の臥床にしのびこむひとつの憂愁
けぶれる木木の梢をこえ
遠い田舎の自然からよびあげる鶏《とり》のこゑです
とをてくう、とをるもう、とをるもう。
恋びとよ
恋びとよ
有明のつめたい障子のかげに
私はかぐ ほのかなる菊のにほひを
病みたる心霊のにほひのやうに
かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを
恋びとよ
恋びとよ。
しののめきたるまへ
私の心は墓場のかげをさまよひあるく
ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥
このうすい紅《べに》いろの空気にはたへられない
恋びとよ
母上よ
早くきてともしびの光を消してよ
私はきく 遠い地角のはてを吹く大風《たいふう》のひびきを
とをてくう、とをるもう、とをるもう。
艶めかしい墓場
風は柳を吹いてゐます
どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。
なめくぢは垣根を這ひあがり
みはらしの方から生《なま》あつたかい潮みづがにほつてくる。
どうして貴女《あなた》はここに来たの
やさしい 青ざめた 草のやうにふしぎな影よ
貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない
さうしてさびしげなる亡霊よ
貴女のさまよふからだの影から
まづしい漁村の裏通りで 魚《さかな》のくさつた臭ひがする
その腸《はらわた》は日にとけてどろどろと生臭く
かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。
ああ この春夜のやうになまぬるく
べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ
妹のやうにやさしいひとよ
それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 真理でもない
さうしてただなんといふ悲しさだらう。
かうして私の生命《いのち》や肉体《からだ》はくさつてゆき
「虚無」のおぼろげな景色のかげで
艶めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。
輪廻と転生
地獄の鬼がまはす車のやうに
冬の日はごろごろとさびしくまはつて
輪廻《りんね》の小鳥は砂原のかげに死んでしまつた。
ああ こんな陰鬱な季節がつづくあひだ
私は幻の駱駝にのつて
ふらふらとかなしげな旅行にでようとする。
どこにこんな荒寥の地方があるのだらう
年をとつた乞食の群は
いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆき
禿鷹の屍肉にむらがるやうに
きたない小虫が焼地《やけち》の穢土《ゑど》にむらがつてゐる。
なんといふいたましい風物だらう
どこにもくびのながい花が咲いて
それがゆらゆらと動いてゐるのだ
考へることもない かうして暮れ方《がた》がちかづくのだらう
恋や孤独やの一生から
はりあひのない心像も消えてしまつて ほのかに幽霊のやうに見えるばかりだ。
どこを風見の鶏《とり》が見てゐるのか
冬の日のごろごろと廻る瘠地の丘で もろこしの葉が吹かれてゐる。
笛の音のする里へ行かうよ
俥に乗つてはしつて行くとき
野も 山も ばうばうとして霞んでみえる
柳は風にふきながされ
燕も 歌も ひよ鳥も かすみの中に消えさる
ああ 俥のはしる轍《わだち》を透して
ふしぎな ばうばくたる景色を行手にみる
その風光は遠くひらいて
さびしく憂鬱な笛の音を吹き鳴らす
ひとのしのびて耐へがたい情緒である。
このへんてこなる方角をさして行け
春の朧げなる柳のかげで 歌も燕もふきながされ
わたしの俥やさんはいつしんですよ。
思想は一つの意匠であるか
鬱蒼としげつた森林の樹木のかげで
ひとつの思想を歩ませながら
仏は蒼明の自然を感じた
どんな瞑想をもいきいきとさせ
どんな涅槃にも溶け入るやうな
そんな美しい月夜をみた。
「思想は一つの意匠であるか」
仏は月影を踏み行きながら
かれのやさしい心にたづねた。
悪い季節
薄暮の疲労した季節がきた
どこでも室房はうす暗く
慣習のながい疲れをかんずるやうだ
雨は往来にびしよびしよして
貧乏な長屋が並びてゐる。
こんな季節のながいあひだ
ぼくの生活は落魄して
ひどく窮乏になつてしまつた
家具は一隅に投げ倒され
冬の 埃の 薄命の日ざしのなかで
蠅はぶむぶむと窓に飛んでる。
こんな季節のつづく間
ぼくのさびしい訪間者は
老年の よぼよぼした いつも白粉くさい貴婦人です。
ああ彼女こそ僕の昔の恋人
古ぼけた記憶の かあてんの影をさまよひあるく情慾の影の影だ。
こんな白雨のふつてる間
どこにも新しい信仰はありはしない
詩人はありきたりの思想をうたひ
民衆のふるい伝統は畳の上になやんでゐる
ああこの厭やな天気
日ざしの鈍い季節。
ぼくの感情を燃え爛すやうな構想は
ああもう どこにだつてありはしない。
遺伝
人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
のをあある とをあある やわあ
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。
お聴き! しづかにして
道路の向うで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」
自然の背後に隠れて居る
僕等が藪のかげを通つたとき
まつくらの地面におよいでゐる
およおよとする象像《かたち》をみた
僕等は月の影をみたのだ。
僕等が草叢をすぎたとき
さびしい葉ずれの隙間から鳴る
そわそわといふ小笛をきいた。
僕等は風の声をみたのだ。
僕等はたよりない子供だから
僕等のあはれな感触では
わづかな現はれた物しか見えはしない。
僕等は遙かの丘の向うで
ひろびろとした自然に住んでる
かくれた万象の密語をきき
見えない生き物の動作をかんじた。
僕等は電光の森かげから
夕闇のくる地平の方から
烟の淡じろい影のやうで
しだいにちかづく巨像をおぼえた
なにかの妖しい相貌《すがた》に見える
魔物の迫れる恐れをかんじた。
おとなの知らない希有《けう》の言葉で
自然は僕等をおびやかした
僕等は葦のやうにふるへながら
さびしい曠野に泣きさけんだ。
「お母ああさん! お母ああさん!」
艶めける霊魂
そよげる
やはらかい草の影から
花やかに いきいきと目をさましてくる情慾
燃えあがるやうに
たのしく
うれしく
こころ春めく春の感情。
つかれた生涯《らいふ》のあぢない昼にも
孤独の暗い部屋の中にも
しぜんとやはらかく そよげる窓の光はきたる
いきほひたかぶる機能の昂進
そは世に艶めけるおもひのかぎりだ
勇気にあふれる希望のすべてだ。
ああこのわかやげる思ひこそは
春日にとける雪のやうだ
やさしく芽ぐみ
しぜんに感ずるぬくみのやうだ
たのしく
うれしく
こころときめく性の躍動。
とざせる思想の底を割つて
しづかにながれるいのちをかんずる
あまりに憂鬱のなやみふかい沼の底から
わづかに水のぬくめるやうに
さしぐみ
はぢらひ
ためらひきたれる春をかんずる。
花やかなる情緒
深夜のしづかな野道のほとりで
さびしい電燈が光つてゐる
さびしい風が吹きながれる
このあたりの山には樹木が多く
楢《なら》、檜《ひのき》、山毛欅《ぶな》、樫《かし》、欅《けやき》の類
枝葉もしげく鬱蒼とこもつてゐる。
そこやかしこの暗い森から
また遙かなる山山の麓の方から
さびしい弧燈をめあてとして
むらがりつどへる蛾をみる。
蝗《いなご》のおそろしい群のやうに
光にうづまき くるめき 押しあひ死にあふ小虫の群団。
人里はなれた山の奥にも
夜ふけてかがやく弧燈をゆめむ。
さびしい花やかな情緒をゆめむ。
さびしい花やかな燈火《あかり》の奥に
ふしぎな性の悶えをかんじて
重たい翼《つばさ》をばたばたさせる
かすてらのやうな蛾をみる
あはれな 孤独の あこがれきつたいのちをみる。
いのちは光をさして飛びかひ
光の周囲にむらがり死ぬ
ああこの賑はしく 艶めかしげなる春夜の動静
露つぽい空気の中で
花やかな弧燈は眠り 燈火はあたりの自然にながれてゐる。
ながれてゐる哀傷の夢の影のふかいところで
私はときがたい神秘をおもふ
万有の 生命の 本能の 孤独なる
永遠に永遠に孤独なる 情緒のあまりに花やかなる。
片恋
市街を遠くはなれて行つて
僕等は山頂の草に坐つた
空に風景はふきながされ
ぎぼし ゆきしだ わらびの類
ほそくさよさよと草地に生えてる。
君よ弁当をひらき
はやくその卵を割つてください。
私の食慾は光にかつゑ
あなたの白い指にまつはる
果物の皮の甘味にこがれる。
君よ なぜ早く籠をひらいて
鶏肉の 腸詰の 砂糖煮の 乾酪《はむ》のご馳走をくれないのか
ぼくは飢ゑ
ぼくの情慾は身をもだえる。
君よ
君よ
疲れて草に投げ出してゐる
むつちりとした手足のあたり
ふらんねるをきた胸のあたり
ぼくの愛着は熱奮して 高潮して
ああこの苦しさ 圧迫にはたへられない。
高原の草に坐つて
あなたはなにを眺めてゐるのか
あなたの思ひは風にながれ
はるかの市街は空にうかべる
ああ ぼくのみひとり焦燥して
この青青とした草原の上
かなしい願望に身をもだえる。
夢
あかるい屏風のかげにすわつて
あなたのしづかな寝息をきく。
香炉のかなしいけむりのやうに
そこはかとたちまよふ
女性のやさしい匂ひをかんずる。
かみの毛ながきあなたのそばに
睡魔のしぜんな言葉をきく
あなたはふかい眠りにおち
わたしはあなたの夢をかんがふ
このふしぎなる情緒
影なきふかい想ひはどこへ行くのか。
薄暮のほの白いうれひのやうに
はるかに幽かな湖水をながめ
はるばるさみしい麓をたどつて
見しらぬ遠見の山の峠に
あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。
ああ なににあこがれもとめて
あなたはいづこへ行かうとするか
いづこへ いづこへ 行かうとするか
あなたの感傷は夢魔に饐えて
白菊の花のくさつたやうに
ほのかに神秘なにほひをたたふ。
(とりとめもない夢の気分とその抒情)
春宵
嫋《なま》めかしくも媚ある風情を
しつとりとした襦袢につつむ
くびれたごむの 跳ねかへす若い肉体《からだ》を
こんなに近く抱いてるうれしさ
あなたの胸は鼓動にたかまり
その手足は肌にふれ
ほのかにつめたく やさしい感触の匂ひをつたふ。
ああこの溶けてゆく春夜の灯かげに
厚くしつとりと化粧されたる
ひとつの白い額をみる
ちひさな可愛いくちびるをみる
まぼろしの夢に浮んだ顔をながめる。
春夜のただよふ靄の中で
わたしはあなたの思ひをかぐ
あなたの思ひは愛にめざめて
ぱつちりとひらいた黒い瞳《ひとみ》は
夢におどろき
みしらぬ歓楽をあやしむやうだ。
しづかな情緒のながれを通つて
ふたりの心にしみゆくもの
ああこのやすらかな やすらかな
すべてを愛に 希望《のぞみ》にまかせた心はどうだ。
人生《らいふ》の春のまたたく灯かげに
嫋めかしくも媚ある肉体《からだ》を
こんなに近く抱いてるうれしさ
処女《をとめ》のやはらかな肌のにほひは
花園にそよげるばらのやうで
情愁のなやましい性のきざしは
桜のはなの咲いたやうだ。
軍隊
通行する軍隊の印象
この重量のある機械は
地面をどつしりと圧へつける
地面は強く踏みつけられ
反動し
濛濛とする埃をたてる。
この日中を通つてゐる
巨重の逞ましい機械をみよ
黝鉄の油ぎつた
ものすごい頑固な巨体だ
地面をどつしりと圧へつける
巨きな集団の動力機械だ。
づしり、づしり、ばたり、ばたり
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。
この兇逞な機械の行くところ
どこでも風景は褪色し
黄色くなり
日は空に沈鬱して
意志は重たく圧倒される。
づしり、づしり、ばたり、ばたり
お一、二、お一、二。
お この重圧する
おほきなまつ黒の集団
浪の押しかへしてくるやうに
重油の濁つた流れの中を
熱した銃身の列が通る
無数の疲れた顔が通る。
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく
お一、二、お一、二。
暗澹とした空の下を
重たい鋼鉄の機械が通る
無数の拡大した瞳孔《ひとみ》が通る
それらの瞳孔《ひとみ》は熱にひらいて
黄色い風景の恐怖のかげに
空しく力なく彷徨する。
疲労し
困憊《ぱい》し
幻惑する。
お一、二、お一、二
歩調取れえ!
お このおびただしい瞳孔《どうこう》
埃の低迷する道路の上に
かれらは憂鬱の日ざしをみる
ま白い幻像の市街をみる
感情の暗く幽囚された。
づしり、づしり、づたり、づたり
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。
いま日中を通行する
黝鉄の凄く油ぎつた
巨重の逞ましい機械をみよ
この兇逞な機械の踏み行くところ
どこでも風景は褪色し
空気は黄ばみ
意志は重たく圧倒される。
づしり、づしり、づたり、づたり
づしり、どたり、ばたり、ばたり。
お一、二、お一、二。
自由詩のリズムに就て
自由詩のリズム
歴史の近い頃まで、詩に関する一般の観念はかうであつた。「詩とは言葉の拍節正しき調律即ち韻律を踏んだ文章である」と。この観念から文学に於ける二大形式、「韻文」と「散文」とが相対的に考へられて来た。最近文学史上に於ける一つの不思議は、我我の中の或る者によつて、散文で書いた詩――それは「自由詩」「無韻詩」又は「散文詩」の名で呼ばれる――が発表されたことである。この大胆にして新奇な試みは、詩に関する従来の常識を根本からくつがへしてしまつた。詩に就いて、世界は新らしい概念を構成せねばならぬ。
勿論、そこでは多くの議論と宿題とが予期される。我我の詩の新しき概念は、それが構成され得る前に、先づ以て十分に吟味せねばならぬ。果して自由詩は「詩」であるかどうか。今日一派の有力なる詩論は、毅然として「自由詩は詩に非ず」と主張してゐる。彼等の哲学は言ふ。「散文で書いたもの」は、それ自ら既に散文ではないか。散文であつて、同時にまたそれが詩であるといふのは矛盾である。散文詩又は無韻詩の名は、言語それ自身の中に矛盾を含んで居る。かやうな概念は成立し得ない。元来、詩の詩たる所以――よつて以てそれが散文から類別される所以――は、主として全く韻律の有無にある。韻律を離れて尚詩有りと考ふるは一つの妄想である。けだし韻律《リズム》と詩との関係は、詩の起原に於てさへ明白ではないか。世界の人文史上に於て、原始民族の詩はすべて明白に規則正しき拍節を踏んでゐる。言語発生以前、彼等は韻律によつて相互の意志を交換した。韻律は、その「規則正しき拍節の形式」によつて我等の美感を高翔させる。詩の母音は此所から生れた。見よ、詩の本然性はどこにあるか。原始の純樸なる自然的歌謡――牧歌や、俚謡や、情歌や――の中に、一つとして無韻詩や自由詩の類が有るか。
我我の子供は、我我の中での原始人である。彼等の生活はすベて本然と自然とにしたがつて居る。されば子供たちは如何に歌ふか。彼等の無邪気な即興詩をみよ。子供等の詩的発想は、常に必ず一定の拍節正しき韻律の形式で歌はれる。自然の状態に於て、子供等の作る詩に自由詩はない。
そもそも如何にして韻律《リズム》がこの世に生れたか。何故に詩が、韻律《リズム》と密接不離の関係にあるか。何故に我等が――特に我等の子供たちが――韻律《リズム》の心像を離れて詩を考へ得ないか。すべて此等の理窟はどうでも好い。ただ我等の知る限り、此所に示されたる事実は前述の如き者である。詩の発想は、本然的に音楽の拍節と一致する。そして恐らく、そこに人間の美的本能の唯一な傾向が語られてあるだらう。宇宙の真理はかうである。「原始《はじめ》に韻律があり後に言葉がある。」この故に、韻律を離れて詩があり得ない。自由詩とは何ぞや、無韻詩とは何ぞや、不定形律の詩とは何ぞや。韻律の定まれる拍節を破却すれば、そは即ち無韻の散文である。何で此等を「詩」と呼ぶことができようぞ。
かくの如きものは、自由詩に対する最も手強《てごは》い拒絶である。けれどもその論旨の一部は、単なる言語上の空理を争ふにすぎない。そもそも自由詩が「散文で書いたもの」である故に、同時にそれが詩であり得ないといふ如き理窟は、理窟それ自身の詭弁的興味を除いて、何の実際的根拠も現在しない。なぜといつて我等の知る如く、実際「散文で書いたもの」が、しばしば十分に詩としての魅惑をあたへるから。そしていやしくも詩としての魅惑をあたへるものは、それ自ら詩と呼んで差支へないであらう。もし我等にして、尚この上この点に関して争ふならば、そは全く「詩」といふ言葉の文字を論議するにすぎない。暫らく我等をして、かかる概念上の空論を避けしめよ。今、我等の正に反省すべき論旨は別にある。
しばしば浅薄な思想は言ふ。「自由詩は韻律の形式に拘束されない。故に自由であり、自然である。」と。この程度の稚気は一笑に価する。反対に、自由詩に対する非難の根柢は、それが詩として不自然な表現であるといふ一事にある。この論旨のために、我我の反対者が提出した前述の引例は、すべて皆真実である。実際、上古の純樸な自然詩や、人間情緒の純真な発露である多くの民謡俗歌の類は、すべて皆一定の拍節正しき格調を以て歌はれて居る。人間本然の純樸な詩的発想は、帰せずして拍節の形式と一致して居る。不定形律の詩は決して本然の状態に見出せない。ばかりでなく、我我自身の場合を顧みてもさうである。我我の情緒が昂進して、何かの強い詩的感動に打たれる時、自然我我の言葉には抑揚がついてくる。そしてこの抑揚は、心理的必然の傾向として、常に音楽的拍節の快美な進行と一致する故に、知らず知らず一定の韻律がそこに形成されてくる。一方、詩興はまたこの韻律の快感によつて刺激され、リズムと情想とは、此所に互に相待ち相助けて、いよいよ益益詩的感興の高潮せる絶頂に我等を運んで行くのである。かくて我等の言葉はいよいよ滑らかに、いよいよ口調よく、そしていよいよ無意識に「韻律の周期的なる拍節」の形式を構成して行く。思ふにかくの如き事態は、すべての原始的な詩歌の発生の起因を説明する。詩と韻律の関係は、けだし心理的にも必然の因果である如く思はれる。
然るに我等の自由詩からは、かうした詩の本然の形式が見出せない。音楽的拍節の一定の進行は、自由詩に於て全く欠けてゐる者である。ばかりでなく、自由詩は却つてその「規則正しき拍節の進行」を忌み、俗語の所謂「調子づく」や「口調のよさ」やを浅薄幼稚なものとして擯斥する。それ故に我等は、自由詩の創作に際して、しばしば不自然の抑圧を自らの情緒に加へねばならぬ。でないならば、我等の詩興は感興に乗じて高翔し、ややもすれば「韻律の甘美な誘惑」に乗せられて、不知不覚の中に「口調の好い定律詩」に変化してしまふ恐れがある。
元来、詩の情操は、散文の情操と性質を別にする。詩を思ふ心は、一つの高翔せる浪のやうなものである。それは常に現実的実感の上位を跳躍して、高く天空に向つて押しあげる意志であり、一つの甘美にして醗酵せる情緒である。かかる種類の情操は、決して普通の散文的情操と同じでない。したがつて詩の情操は、自然また特種な詩的表現の形式を要求する。言ひ換へれば、詩の韻律形式は、詩の発想に於て最も必然自由なる自然の表現である。然り、詩は韻律の形式に於てこそ自由である。無韻律の不定形律――即ち散文形式――は、詩のために自由を許すものでなくして、却つて不自由を強ひるものである。然らば「自由詩」とは何の謂ぞ。所謂自由詩はその実「不自由詩」の謂ではないか。けだし、「散文で詩を書く」ことの不自然なのは、「韻文で小説を書く」ことの不自然なのと同じく、何人《なんぴと》にも明白な事実に属する。
自由詩に対するかくの如き論難は、彼等が自由詩を「散文で書いたもの」と見る限りに於て正当である。そしてまた此所に彼等の誤謬の発端がある。なぜならば真実なる事実として、自由詩は決して「散文で書いたもの」でないからである。しかしながらその弁明は後に譲らう。此所では彼等の言にしたがひ、また一般の常識的観念にしたがひ、暫らくこの仮説を許しておかう。然り、一般の観念にしたがふ限り、自由詩は確かに散文で書いた「韻律のない詩」である。故にこの見識に立脚して、自由詩を不自然な表現だと罵るのは当を得て居る。我等はあへてそれに抗弁しない。よしたとへ彼等の見る如く、自由詩が真に不自然な者であるとした所で、尚且つあへて反駁すべき理由を認めない、なぜならばこの「自然的でない」といふ事実は、この場合に於て「原始的でない」を意味する。しかして文明の意義はすべての「原始的なもの」を「人文的なもの」に向上させるにある。されば大人が子供よりも、文明人が野蛮人よりも、より価値の高い人間として買はれるやうに、そのやうにまた我等の成長した叙情詩も、それが自然的でない理由によつてすら、原始の素樸な民謡や俗歌よりも高価に買はるべきではないか。けだし自由詩は、近世紀の文明が生んだ世界の最も進歩した詩形である。そして此所に自由詩の唯一の価値がある。
世界の叙情詩の歴史は、最近仏蘭西に起つた象徴主義の運動を紀元として、明白に前後の二期に区分された。前派の叙情詩と後派の叙情詩とは、殆んど本質的に異つて居る。新時代の叙情詩は、単なる「純情の素朴な詠嘆」でなく、また「観念の平面的なる叙述」でもなく、実に驚くべき複雑なる叡智的の内容と表現とを示すに至つた。(但し此所に注意すべきは、所謂「象徴詩」と「象徴主義」との別である。かつてボドレエルやマラルメによつて代表された一種の頽廃気分の詩風、即ち所謂「象徴詩」なるものは、その特色ある名称として用ゐられる限り、今日既に廃つてしまつた。しかしながら象徴主義そのものの根本哲学は今日尚依然として多くの詩派――表現派、印象派、感情派等――の主調となつて流れてゐる。自由詩形もまた此の哲学から胎出された。)
象徴主義が唱へた第一のモツトオは、「何よりも先づ音楽へ」であつた。しかしこの標語