2005-08-01から1ヶ月間の記事一覧

晩秋

私は柿の木が好きだ それにもまして あの夕方の空が好きだ 何処かで風の吹いてゐるあのかはたれの空がこのましい その空の下では 私の心は容易に子供になつて 空しい遊びをしてゐる 私は柿の木が好きだ 私は空しい想ひが あの堅い一つの実に疑たとしたら 人…

この頃の夜は虫が鳴かなくなつた どうしたことだらう 人にも逢はず暮すうちに 我が家の庭に雑草ははびこつた。 精神の疲れが気づくたびに 私の身ぢかく青く雑草はそよいでゐる その丈高い草の陰に もう あの虫どもは鳴きやんでしまつたか こんなに外《と》の…

晩夏

人の住んでゐない家の庭には雑草がはびこつてゐる。一茎ごとが目に見えない風に心もち戦《おのの》いて、蛙が白い腹を出して死んでゐる。一瞬の鱗の輝きが草むらに隠れる。 石造の家の壁にはもう久しく日が射してゐる。あの気の遠くなるやうな耐熱がぢりぢり…

詩人の枕

「吝嗇《りんしよく》な祖母の許に行くよりは 秋の野山に出て遊べ さう云つて 草深い土地の祖母は母に語り 母は娘に伝へてゆくと……詩人よ お前も あの山家の言葉を聴いたことがお有りか あの美しい野の果物の半球にしばし忘却を味はひはしなかつたか だが お…

はるかなものに

白い繭を破つて 生れ出た蛾のやうに 俺には 子供の成長が 実に不思議に思はれる 美しいもの―― とも考へる 俺は林の中に居を朴《ぼく》した 俺が老いるのは 子供が育つことだ それにはなんの不思議もない 風が来て 芙蓉の花が揺れる 俺は旅で少女と識した 古…

雪尺余

あの人は死んでゐる あの人は生きてゐる 私は 遠い都会から来た 今宵 哀しい報知《ほうこく》をきいて 駅は 貨物の列は 民家も燈《ひ》も 人の寂しい化粧《よそほひ》も 地にあるものは なべて白い あの人は死んでゐない あの人は生きてゐない だが あの人は…

その三

飯山

正受庵《しやうじゆあん》は普請中であつた 屋根の上に一人の若い大工がゐあ。庵主は不在で、やがて大工は降りて来て、私を裏の宝物倉に導いた。そのあたりから、山麓の薄の穂の光るのがよく見えた。 墓所もあつた。美しい名の童女《どうぢよ》の碑もまじつ…

吹雪

それは 冬日に暮れた 何処の町の停車場であつたか この線路《レール》は北にむけて涯《はて》しがない 新しい列車がつく 線路《レール》の上に粉《こ》をふらせながら 汽車《かま》の火熱《くわねつ》もねむたげだ 車窓から 少年の頬が三つあらはれる 正しい…

煤《すす》けた厨《くりや》の明り窓の下に 玉葱と人参がひつそりと置いてあつた 帰つて来た子供が又遊びに出て行つた 蛾がきて電燈の球を一周《ひとまは》りした 湯が滾《たぎ》つてゐた 竈《かまど》の火が赤かつた 往還《わうくわい》の夕方を 篠《しの》…

――戸隠の炉端 主人《あるじ》は最後に お社《やしろ》のうしろで真紅《まつか》な鳥を見た さう云つて話すと一息いれた ――もう話はみんなです 山がお気に入りましたか ――もつと話して下さい 自然のことを ――さてなんだらう 自然と云つて 私達初め まるで立木…

戸隠びと

善光寺の町で 鮭を一疋《いつぴき》さげた老人に行き逢つた 枯れた薄を着物につけて それは山から降りてきた人 薪を背負つてきた男 「春になつたらお出かけなして」 月の寒い晩 薪を売つて 鮭を買つた 老人は小指が一本足りなかつた 目次に戻る

戸隠姫

山は鋸《のこぎり》の葉の形 冬になれば 人は往かず 峰の風に 屋根と木が鳴る こうこうと鳴ると云ふ 「そんなに こうこうつて鳴りますか」 私の問ひに 娘は皓《しろ》い歯を見せた 遠くの薄は夢のやう 「美しい時ばかりはございません」 初冬《しよとう》の…

早春

――犀星師の故郷にて 池田町歩みをとめと逢はず雪ふるなり そのかみの武家の屋敷が 門《かど》のべに媼《おうな》しはぶき 円き肩傘してゆき交ふ 雪ふると見れば また忽《たちま》ちに晴れゆく青空《そら》は あはれ 北国びとの微笑か 池田町歩み春ともしらず…

緑葉

隧道《トンネル》が見える 今し 小さな列車が隧道から出てくる 汽車の屋根の その向ふに見える青葉のかがやき 汽笛が鳴る 私の部屋の窓硝子も鳴る 私の単調が一瞬破れる 目の鋭い少女が庭に出て 楢《なら》の木蔭から汽車を見てゐる その娘を 姉さんと呼ぶ男…

風土によせて

小粒な葡萄《ぶだう》 浅間の葡萄 私は もう 幾年もたべたことがない 初夏の火山の麓を走る 汽車の歩みは まことにのろい 岩石の間から 白雲の湧くやうな―― そんな壮《さか》んな風景の中で 汽車は ごくんと急に停つた 真昼の静寂《しじま》 緑の木蔭で 杜鵑…

鄙の家

九州の旅に出て 私は油布《ゆふ》の嶺を越えた 嶺の霧は深かつた 麓の村の 霧のなかで 娘が水を汲んでゐた いづこの農家の庭にも咲く 紅い叢花《くさばな》 霧のなかで 娘が花を摘んでゐた 身も心も淡く濡れそぼつて 村のはづれでは 若者の歌が 夕べの雲のや…

魚を喰べる

山に来て 小さき宿り その夕餉《ゆふげ》の膳に魚《うを》を喰《たう》べる 荒塩の舌にきびしく 小さき骨の歯に触れるども 何事もなき夕暮なれば また 何ごとの口惜しくもあらず この家のぢぢもばばも なほ 永く生き給へと 波青き日本海は見ずとも その荒海…

みづ絵

柔和な動物 あの山羊達は どうして あんな老年《としより》じみた おどけたお面を被つてゐるのだらう 気永《きなが》に しかも まじめくさつて 草を食《は》んでは また首を上げて私を見る 日が照つてゐる草の上 動物の匂ひが漂つてきて どうかすると 私はこ…

木の実

木に梯子をかけて 女が一人 登つてゐる 胸高な女である 手に籠を提《さ》げてゐる 木の果《み》をとつてゐるのか この夕べ 空に 金星が光つてゐる 果《み》をとるもの 木の下で 前掛をひろげてゐる子供 ああ 私は この豊かな風景の中に 結実の意味を読み 収…

旅行者

冬枯れの丘に 日がてれば 狐色の風景の中に 又 人影が立つてゐる 知つてゐるだらう あれは 旅を行く人の姿だ その人の一日を 木と花と 少しばかり 友情の雲が つれない旅点《りよてん》の寝床が かたちづくつてゐる 藪陰に 椿の木を見れば その堅い蕾の心を…

稲妻

――田舎の絵本から 堤の上で村人が立話をしてゐる お腹の大きな女が お風呂を貰《もら》ひに通つて行く 薄《すすき》が穂に出て 川音がきこえる 風が出てきたのかしら 薄の穂が倒れかかる 立話の村人が影絵になつてしまふ 目次に戻る

田舎

面輪《おもわ》が鹿に肖《に》た媼《おうな》が 牛若髷の娘をつれて 田舎の道をあるいて行つた 私の抒情《じよじやう》する ふるさとでは 梅の花が咲いて 少年の読書の声がきこえてゐる 目次に戻る

その二

夕暮

食卓の上に燈《ひ》を置いて 母親のエプロン着の姿が しばらく窓際に見られた 昔 三人の子供が 円い卓をかこんだとき 皆《みな》の小さな手は三つ合せても 父の手にかなはなかつたがーー とき折 一人の子供の姿が見喪はれた 父や母の心のなかで 家族が集まる…

南で

南で知つた海 聞いた唄 烏賊《いか》釣船と白い帆船 これがこの国の人情か 海寺のお嬢さん 言葉かずが少なくて 耳朶《みみたぶ》が大きく 空の蒼い日は いつも微笑んでゐた 目次に戻る

その一

或る遍歴から

目次 その一 南で 夕暮 その二 田舎 稲妻 旅行者 木の実 みづ絵 魚を喰べる 鄙の家 風土によせて 緑葉 早春 戸隠姫 戸隠びと 炉 厨 吹雪 飯山 その三 雪尺余 はるかなものに 詩人の枕 晩夏 月 晩秋 水ぎは 熊 猟館 昼を愛する歌 父と娘 荒地野菊 冬の夜道 冬…

午後の時

弓なりに反り返る ケヤキの枝の下 ベンチの縁に 頭と足を投げ出し 寝そべって上を見ていた 太陽は正午の位置にある 日はまぶしい 求める物は何か 私はあえてそれを見つめる 手を伸ばしても 遮ることは出来ない 透くことは出来ない 太陽はどういう形をしてい…

あとがき

「父のゐる庭」は私の二つ目の詩集である。 書物を編むことの甚だ不手際な私は「愛する神の歌」を出してからこちら、ついつい七年もの長い年月を閲してしまつた。作品もその間かなりの数になつた。従つて、こんど詩集に収録するにあたつても、前後の作品に自…