石川啄木

夢の宴

一 幻にほふ花染《はなぞめ》の 朧《おぼろ》や、卯月《うつき》、夜を深み、 春の使《つかひ》の風の児《こ》は やはら光翅《つやば》の羽衣を 花充《み》つ枝にぬぎかけて、 熟睡《うまい》もなかの苑《その》の中 千株桜《ちもとざくら》の香の夢の おぼ…

二つの影

浪の音《ね》の 楽《がく》にふけ行く 荒磯辺《ありそべ》の夜《よる》の砂、 打ふみて我は辿りぬ。 海原にかたぶける 秋の夜の月は円《まろ》し。 ふと見れば、 ましろき砂に 影ありて際《きは》やかに、 わが足の歩みはこべば、 影も亦歩みつつ、 手あぐれ…

眠れる都

(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を 開けば、竹林の突下、一望甍の谷ありて眼界を埋め たり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に 月照りて、永く山村僻陬の間にありし身には、いと 珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて匆々筆を染め ける…

のぞみ

一 やなぎ洩る 月はかすかに 額《ぬか》を射て、ほの白し。 かすかなる『のぞみ』の歌は、 砂原にうちまろぶ 若人《わかうど》の琴にそひぬ。 つきかげは やや傾ぶきぬ。 川柳《かはやぎ》に風やみぬ。 おもへらく、ああ我が望み、 かたぶきぬ、衰ろへぬ。 …

炎の宮

女《をみな》は熱にをかされて 終焉《いまは》の床に叫ぶらく、── 『我は炎《ほのほ》の宮を見き。 宮は、初めは生命の 緑にもゆる若き火の、 たちまちかはる生火渦《いくほうづ》、 赤竜《せきりゆう》をどる天塔《てんたふ》や。 見ませ今はた漸々《やうや…

壁画

破壊《はゑ》が住みける堂の中、 讃者《さんじや》群れにしいにしへの さかえの色を猶とめて 壁画《かべゑ》は壁に虫ばみぬ。 おもひでこそは我胸の かべゑなるらし。熄《き》えぬ火の 炎のかほり伝へつつ、 沈黙《しゞま》に曳《ひ》ける恋の影。 古《ふ》…

天火盞

恋は、天照《あまて》る日輪《にちりん》の みづから焼けし蝋涙《ろふるい》や、 こぼれて、地に盲《し》ひし子が 冷《ひえ》にとぢける胸の戸の 夢の隙《すき》より入りしもの。 夢は、夢なる野の小草、 草が天《あま》さす隙間《すきま》より おちし一点《…

枯林

うち重《かさ》む楢《なら》の朽葉《くちば》の 厚衣《あつごろも》、地《つち》は声なく、 雪さへに樹々《きゞ》の北蔭《きたかげ》 白銀《しろがね》の楯《たて》に掩へる 冬枯の丘の林に、 日をひと日、吹き荒《すさ》みたる 凩《こがらし》のたたかい果…

江上の曲

水緩《ゆる》やかに、白雲《しらくも》の 影をうかべて、野を劃《かぎ》る 川を隔《へだ》てて、西東、 西の館《やかた》ににほひ髪 あでなる姫の歌絶えず、 東の岸の草蔭に 牧《まき》の子ひとり住《すま》ひけり。 姫が姿は、弱肩《よわがた》に 波うつ髪…

あこがれ(3)

目次3*1 江上の曲 枯林 天火盞 壁画 炎の宮 のぞみ 眠れる都 二つの影 夢の宴 うばらの冠 心の声 電光 祭の夜 暁霧 落葉の煙 古瓶子 救済の綱 あさがほ 白鵠 傘のぬし 落櫛 泉 青鷺 小田屋守 凌霄花 草苺 めしひの少女 跋 *1:字数の関係から3つに分けた

あゆみ

始めなく、また終りなき 時を刻むと、柱なる 時計の針はひびき行け。 せまく、短かく、過ぎやすき いのち刻むと、わが足《あし》は ひねもす路を歩むかも。 (九月十九日夜) 『秋風高歌』畢 目次に戻る

秘密

花蝋《はなろふ》もゆる御簾《みす》の影、 琴柱《ことぢ》をおいて少女子《をとめご》の 小指《をゆび》やはらにしなやかに、 絃《いと》より絃に転《てん》ずれば、 さばしり出る幻の 人《ひと》酔《よ》はしめの楽《がく》の宮、 ああこの宮を秘《ひ》め…

落ちし木の実

秋の日はやく母屋《おもや》の屋根に入り、 ものさびれたる夕をただひとり 紙障《しさう》をあけて、庭面《にはも》にむかふ時、 庭は風なく、落葉の音もたえて、 いと静けきに、林檎《りんご》の紅《あけ》の実《み》は かすかに落ちぬ、波なき水潦《みづた…

愛の路

高きに登り、眺むれば、 乾坤《けんこん》愛の路通ふ 青海原のはてにして、 安らかに行く白帆影。── 波は休まず、撓《たゆ》まずに 相噛《か》みくだけ、動けども、 安らかに行く白帆影。 路のせまきに、せはしげに 蠢《うご》めく人よ、来て見よや、── 花を…

ああ君こそは、青淵《あをぶち》の 流転《るてん》の波に影浮けて しなやかに立つ柳《やなぎ》なれ。 流転《るてん》よ、さなり流転よ、それ遂に 夢ならず、また影ならず、 照る世の生日《いくひ》進み行く 生命《いのち》の流れなればか、春の風 燻《くん》…

波は消えつつ

波は消えつつ、砕けつつ 底なき海の底より湧き出でて、 朝より真昼《まひる》、昼《ひる》より夜に朝に 不断《ふだん》の叫びあげつつ、帯《をび》の如、 この島根《しまね》をば纒《まと》ふなり。 ああ詩人《うたびと》の興来《きようらい》の 波も、消え…

君が花

君くれなゐの花薔薇《はなさうび》、 白絹《しらぎぬ》かけてつつめども、 色はほのかに透《す》きにけり いかにやせむとまどひつつ、 墨染衣袖かへし 掩へどもともいや高く 花の香りは溢れけり。 ああ秘めがたき色なれば、 頬《ほゝ》にいのちの血ぞ熱《ほ…

黄の小花

夕暮野路《のぢ》を辿りて、黄に咲ける 小花《をばな》を摘《つ》めば、涙はせきあへず。 ああ、ああこの身この花、小《ちい》さくも いのちあり、また仰《あふ》ぐに光あり。 この野に咲ける、この世に捨《す》てられし、 運命《さだめ》よ、いづれ、大慈悲…

我が世界

世界の眠り、我ただひとり覚《さ》め、 立つや、草這《は》ふ夜暗《やあん》の丘《おか》の上。 息をひそめて横たふ大地《おほつち》は わが命《めい》に行く車《くるま》にて、 星鏤《ちりば》めし夜天《やてん》の浩蕩《かうたう》は わが被《かづ》きたる…

黄金向日葵

我《わ》が恋は黄金《こがね》向日葵《ひぐるま》、 曙いだす鐘にさめ、 夕の風に眠るまで、 日を趁《お》ひ光あこがれ、まろらかに 眩《まば》ゆくめぐる豊熱《ほうねつ》の 彩《あや》どり饒《おほ》きこがねの花なれや。 これ夢ならば、とこしへの さめた…

秋風高歌((雑詩十章甲辰初秋作))

寂寥

片破月《かたわれづき》の淋しき黄の光 破窓《やれまど》洩《も》れて、老尼《らうに》の袈裟《けさ》の如、 静かに細うふるひて、読みさしの 書《ふみ》の上《へ》、さては黙座《もくざ》の膝に落ちぬ。 草舎《くさや》の軒《のぎ》をめぐるは千万《ちよろ…

光の門

よすがら堪へぬなやみに気は沮《はゞ》み、 黒蛇《くろへみ》ねむり、八百千《やほち》の梟《ふくろふ》の 暗声《やみごゑ》あはす迷ひの森の中、 あゆみにつるる朽葉《くちば》の唸《うめ》きをも 罪にか誘ふ陰府《よみぢ》のあざけりと 心責めつつ、あてな…

藻の香に染みし白昼《まひる》の砂枕《すなまくら》、 ましろき鴎《かもめ》、ゆたかに、波の穂を 光の羽《はね》にわけつつ、砕け去る 汀の【あわ】*1《あわ》にえものをあさりては、 わが足近く翼を休らへぬ。 諸手《もろて》をのべて、高らに吟《きん》ず…

壁なる影

夜風《よかぜ》にうるほひ、行春《いくはる》淡き 有明燭《ありあけともし》の火影《ほかげ》ぞ揺れて、 ああ今、ほのかに、幻ふかく 起伏《おきふし》さだめぬ影こそ壁に。 詩歌《しいか》の愁ひに我が身は痩《や》せて、 くだつ夜、低唱《ていせう》、無興…

ひとつ家

にごれる浮世の嵐に我怒《いか》りて、 孤家《ひとつや》、荒磯《ありそ》のしじまにのがれ入りぬ。 捲き去り、捲きくる千古の浪は砕け、 くだけて悲しき自然の楽《がく》の海に、 身はこれ寂蓼児《さびしご》、心はただよひつつ、 静かに思ひぬ、──岸なき過…

アカシヤの蔭

たそがれ淡き揺曳《さまよひ》やはらかに、 収《をさ》まる光暫しの名残なる 透影《すいかげ》投げし碧《みどり》の淵《ふち》の上、 我ただひとり一日《ひとひ》を漂へる 小舟《をぶね》を寄せて、アカシヤ夏の香の 木蔭《こかげ》に棹《かひ》をとどめて休…

金甌の歌

あけぼの光纒《まと》へる青雲《あをぐも》の、 ときはかきはに眠と暗となき、 幻、律《しら》べ、さまよふ聖宇《みや》の中、 新たに匂ふいのちのほのぼのと 我は生《うま》れき。大日《おほひ》の灼《かゞ》やきに 玉膸《ぎよくずゐ》湛《たゝ》ふ黄金の花…

マカロフ提督追悼の詩

(明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊 大挙して旅順港口に迫るや、敵将マカロフ提督之を 迎撃せむとし、愴惶令を下して其旗艦ぺトロバフロ スクを港外に進めしが、武運や拙なかりけむ、我が 沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督も亦艦と運命を 共に…

ほととぎす

(甲辰六月九日、夏の小雨の涼けき禅房の窓に、白 蘋の花など浮べたる水鉢を置きつつ、岩野泡鳴兄へ 文を認めぬ。時に声あり、彷彿として愁心一味の調 を伝へ来る。屋後の森に杜鵑の鳴く也。乃ち匆々と して文の中に記し送りける。) 若き身ひとり静かに凭る…