あこがれ(1)

目次1*1



此書を
尾崎行雄
に献じ併て遥に
故郷の山河
に捧ぐ




*1:字数の関係から3つに分けた

啄木

上田 敏 

婆羅門《ばらもん》の作れる小田《をだ》を食《は》む鴉、
なく音《ね》の、耳に慣れたるか、
おほをそ鳥《どり》の名にし負ふ
いつはり声《ごゑ》のだみ声《ごゑ》を
又なき歌とほめそやす
木兎《つく》、梟《ふくろう》や、椋鳥《むくどり》の
ともばやしこそ笑止《せうし》なれ。
聞《き》かずや、春《はる》の山行《やまぶみ》に
林《はやし》の奧《おく》ゆ、伐木《ばつぼく》の
丁々《たうたう》として、山更《やまさら》に
なほも幽《いう》なる山彦《やまびこ》を。
こはそも仙家《せんか》の斧《をの》の音《ね》か、
よし足引《あしびき》の山姥《やまうば》が
めぐりめぐれる山めぐり、
輪廻《りんゑ》の業《ごふ》の音《おと》づれか、

いなとよ、ただの鳥《とり》なれど、
赤染《あかぞめ》いろのはねばうし、
黒斑《くろふ》、白斑《しらふ》のあや模様《もやう》、
紅梅《こうばい》、朽葉《くちば》の色許《いろゆ》りて、
なに思《おも》ふらむ、きつつきの
つくづくわたる歌《うた》の枝《えだ》。

げに虚《うつろ》なる朽木《きうぼく》の
幹《みき》にひそめるけら虫《むし》は
風雅《ふうが》の森《もり》のそこなひぞ、
鉤《か》けて食《くら》ひね、てらつつき。
また人《ひと》の世《よ》の道《みち》なかば
闇路《やみぢ》の林《はやし》ゆきまよふ
誠《まこと》の人《ひと》を導《みちび》きて
歓楽山《くわんらくざん》にしるべせよ。
噫《あゝ》、あこがれの其歌《そのうた》よ、
そぞろぎわたり、胸《むね》に泌《し》み、
さもこそ似《に》たれ、陸奥《みちのく》の
卒都《そと》の浜辺《はまべ》の呼子《よぶこ》どり
なくなる声《こゑ》は、善知鳥《うとう》、安潟《やすかた》。

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沈める鐘((序詩))

   一

渾沌《こんどん》霧なす夢より、暗を地《つち》に、
光を天《あめ》にも劃《わか》ちしその曙、
五天の大御座《おおみざ》高うもかへらすとて、
七宝《しちほう》花咲く紫雲の『時』の輦《くるま》
瓔珞《えうらく》さゆらぐ軒より、生《せい》と法《のり》の
進みを宣《の》りたる無間《むげん》の巨鐘《おほがね》をぞ、
永遠《とは》なる生命《いのち》の証《あかし》と、海に投げて、
蒼穹《おをぞら》はるかに大神《おほかみ》知ろし立ちぬ。

時世《ときよ》は流れて、八百千《やほち》の春はめぐり、
栄光いく度さかえつ、また滅びつ、
さて猶老《おい》なく、理想の極まりなき
日と夜の大地《おほぢ》に不断《ふだん》の声をあげて、
(何等の霊異ぞ)劫初《ごふしよ》の海底《うなぞこ》より
『秘密』の響きを沈める鐘ぞ告ぐる。

   二

朝《あした》に、夕《ゆふべ》に、はた夜の深き息に、
白昼《まひる》の嵐に、擣《つ》く手もなきに鳴りて、
絶えざる巨鐘、──自然の胸の声か、
永遠《とは》なる『眠《ねむり》』か、無窮の生の『覚醒《さめ》』か、──
幽《かす》かに、朗《ほが》らに、或は雲にどよむ
高潮《たかじほ》みなぎり、悲恋《ひれん》の咽び誘ひ、
小貝《をがひ》の色にも、枯葉にさゝやきにも
ゆたかにこもれる無声の愛の響。

悵《いた》める心に、渇《かは》ける霊の唇《くち》に、
滴《したゞ》り玉なす光の清水《しみづ》めぐみ、
香りの雲吹く聖土《せいど》の青き花を
あこがれ恋ふ子《こ》に天《あめ》なる楽《がく》を伝ふ
救済《すくひ》の主《あるじ》よ、沈める鐘の声よ。
ああ汝《なれ》、尊とき『秘密』の旨《むね》と鳴るか。

   三

ひとたび汝《な》が声心の弦《いと》に添ふや、
地の人百《もゝ》たり人為の埒《らち》を超《こ》えて、
天馬《てんば》のたかぶり、血を吐く愛の叫び、
自由の精気を、耀《かゞや》く霊の影を
あつめし瞳《ひとみ》に涯《はて》なき涯を望み、
黄金《こが》の光を歴史に染めて行ける。
彫《ゑ》る名はさびたれ、かしこに、ここの丘《をか》に、
墓碑《はかいし》、──をしへのかたみを我は仰《あふ》ぐ。
暗這《は》う大野《おほの》に裂《さ》けたる裾《すそ》を曳《ひ》きて、
ああ今聞くかな、天与《てんよ》の命《めい》を告ぐる
劫初の深淵《ふかみ》ゆたゞよふ光の声。──
光に溢れて我はた神に似るか。
大空《おほぞら》地と断《た》て、さらずば天《あめ》よ降《お》りて
この世に蓮満《はしみ》つ詩人の王座作れ。

(甲辰三月十九日) 

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杜に立ちて

秋去り、秋来る時劫《じごふ》の刻《きざ》みうけて
五百秋《いほあき》朽《く》ちたる老杉《おいすぎ》、その真洞《まほら》に
黄金《こがね》の鼓《つゝみ》のたばしる音伝へて、
今日《けふ》また木の間を過ぐるか、こがらし姫。
運命《うんめい》せまくも悩みの黒霧《くろぎり》落ち
陰霊《ゐんりやう》いのちの痛みに唸《うめ》く如く、
梢《こずゑ》を揺《ゆ》りては遠《とほ》のき、また寄せくる
無間《むげん》の潮《うしほ》に漂ふ落葉の声。

ああ今、来りて抱けよ、恋知る人。
流転《るてん》の大浪《おほなみ》すぎ行く虚《うつろ》の路、
そよげる木《こ》の葉《は》ぞ幽《かす》かに落ちてむせぶ。──
驕楽《けふらく》かくこそ沈まめ。──見よ、緑《みどり》の
薫風《くんぷう》いづこへ吹きしか。胸燃えたる
束《つか》の間《ま》、げにこれたふとき愛の栄光《さかえ》。

(癸卯十一月上旬) 

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白羽の鵠船

かの空みなぎる光の淵《ふち》を、魂《たま》の
白羽《しらは》の鵠船《とりぶね》しづかに、その青渦《あをうづ》
夢なる櫂《かひ》にて深うも漕《こ》ぎ入らばや。──
と見れば、どよもす高潮《たかじほ》音匂ひて、
楽声《がくせい》さまよふうてなの靄《もや》の虛《きぬ》を
透《す》きてぞ浮きくる面影、(百合姫《ゆりひめ》なれ)
天華《てんげ》の生襞《いくひだ》【さや】*1々《さやさや》あけぼの染《ぞめ》、
常楽《じやうげふ》ここにと和《やは》らぐ愛の瞳《ひとみ》。

運命《さだめ》や、寂寥児《さびしご》遺《のこ》れる、されど夜々の
ゆめ路《ぢ》のくしびに、今知る、哀愁世《かなしきよ》の
終焉《をはり》は霊光《れいくわう》無限の生《せい》の門出《かどで》。
瑠璃水《るりすゐ》たたえよ、不滅の信《しん》の小壷《こつぼ》。
さばこの地に照る日光《ひかり》は氷《こほ》るとても
高歓《かうくわん》久遠《くをん》の座《ざ》にこそ導《みちび》かるれ。

(癸卯十一月上旬) 

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*1:「たまへん」に「倉」

啄木鳥

いにしへ聖者《せいじや》が雅典《アデン》の森に撞《つ》きし、
光ぞ絶えせぬ天生《てんせい》『愛』の火もて
鋳《ゐ》にたる巨鐘《おほがね》、無窮のその声をぞ
染めなす『緑《みどり》』よ、げにこそ霊の住家《すみか》。
聞け、今、巷《ちまた》に喘《あへ》げる塵《ちり》の疾風《はやち》
よせ来て、若《わか》やぐ生命《いのち》の森の精《せい》の
聖《きよ》きを攻《せ》むやと、終日《ひねもす》、啄木鳥《きつゝきどり》、
巡《めぐ》りて警告《いましめ》夏樹《なつぎ》の髄《ずゐ》にきざむ。

往《ゆ》きしは三千年《みちとせ》、永劫《えいごう》猶すすみて
つきざる『時』の箭《や》、無象《むしやう》の白羽《しらは》の跡《あと》
追《お》ひ行く不滅の教《をしへ》よ。──プラトー、汝《な》が
浄《きよ》きを高きを天路《てんろ》の栄《はえ》と云ひし
霊をぞ守りて、この森不断《ふだん》の糧《かて》、
奇《くし》かるつとめを小《ちい》さき鳥のすなる。

(癸卯十一月上旬) 

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隠沼

夕影《ゆふかげ》しづかに番《つがひ》の白鷺《しらさぎ》下《お》り、
槇《まき》の葉枯れたる樹下《こした》の隠沼《こもりぬ》にて、
あこがれ歌ふよ。──『その昔《かみ》、よろこび、そは
朝明《あさあけ》、光の揺籃《ゆりかご》に星と眠り、
悲しみ、汝《なれ》こそとこしへ此処《こゝ》に朽《く》ちて、
我が喰《は》み啣《ふく》める泥土《ひづち》と融《と》け沈みぬ』──
愛の羽《は》寄《よ》り添《そ》ひ、青瞳《せいどう》うるむ見れば、
築地《ついぢ》の草床《くさどこ》、涙を我も垂《た》れつ。

仰《あふ》げば、夕空さびしき星めざめて、
偲《しの》びの光の、彩《あや》なき夢の如く、
ほそ糸《いと》ほのかに水底《みぞこ》の鎖《くさり》ひける。
哀歓《あいくわん》かたみの輪廻《めぐり》は猶も堪えめ、
泥土《ひづち》に似《に》る身ぞ。ああさは我が隠沼《こもりぬ》、
かなしみ喰《は》み去る鳥《とり》さへえこそ来《こ》めや。

(癸卯十一月上旬) 

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人に捧ぐ

君が瞳《め》ひとたび胸なる秘鏡《ひめかゞみ》の
ねむれる曇りを射《ゐ》しより、醒《さ》め出でたる、
瑠璃羽《るりば》や、我が魂《たま》、日を夜を羽搏《はう》ちやまで、
雲渦《くもうづ》ながるる天路《てんろ》の光をこそ
導《ひ》きたる幻《まぼろし》眩《まばゆ》き愛の宮居《みやゐ》。
あこがれ浄きを花靄《はなもや》匂《にほ》ふと見て、
二人《ふたり》し抱《いだ》けば、地《ち》の事《こと》破壊《はゑ》のあとも
追《お》ひ来《こ》し理想の影ぞとほゝゑまるる。

こし方、運命《さだめ》の氷雨《ひさめ》を凌《しの》ぎかねて、
詩歌《しいか》の小笠《をがさ》に紅《あけ》の緒《を》むすびあへず、
愁《うれ》ひの谷《たに》をしたどりて足悩《あなゆ》みつれ、
峻《こゞ》しき生命《いのち》の坂路《さかぢ》も、君が愛の
炬火《たいまつ》心にたよれば、暗き空に
雲間《くも》も星行く如くぞ安らかなる。

(癸卯十一月十八日) 

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楽声

日暮《ひく》れて、楽堂《がくだう》萎《しほ》れし瓶の花の
香りに酔《ゑ》ひては集《つど》へる人の前に、
こは何、波渦《なみうづ》沈《しづ》める蒼《あを》き海《うみ》の
遠音《とほね》と浮き来て音色《ねいろ》ぞ流れわたる。──
霊の羽ゆたかに白鳩舞《ま》ひくだると
仰《あふ》げば、一弦《いちげん》、忽ちふかき淵《ふち》の
底《そこ》なる嘆《なげ》きをかすかに誘《さそ》ひ出でゝ、
虚空《こくう》を遥《はる》かに哀調《あいてふ》あこがれ行く。

光と暗とを黄金《こがね》の鎖《くさり》にして、
いためる心を捲《ま》きては、遠《とほ》く遠く
見しらぬ他界《かのよ》の夢幻《むげん》の繋《つな》ぎよする
力《ちから》よ自由《まゝ》なる楽声、あゝ汝《なれ》こそ
天《あめ》なる快楽《けらく》の名残《なごり》を地《つち》につたへ、
魂《たま》をしきよめて、世に充《み》つ痛恨《いたみ》訴《うた》ふ。

(癸卯十一月卅日) 

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海の怒り

一日《ひとひ》のつかれを眠りに葬《はふ》らむとて、
日の神天《あめ》より降《お》り立つ海中《うなか》の玉座《みざ》、
照り映《は》ふ黄金《こがね》の早くも沈み行けば、
さてこそ落ち来し黒影《くろかげ》、海を山を
領《りやう》ずる沈黙《しゞま》に、こはまた、恐怖《おそれ》吹きて、
真暗《まやみ》にさめたる海神《わだつみ》いかる如く、
巌鳴り砕けて、地を噛《か》む叫号《さけび》の声、
矢潮《やじほ》をかまけて、狂瀾《きやうらん》陸《くが》を呪ふ。

寄するは夜の胞盾《たて》どる秘密の敵《てき》。──
堕落《おち》てはこの世に、暗なき遠き昔《かみ》の
信《まこと》のおとづれ囁《さゝ》やく波もあらで、
ああ人、眠れる汝等《なれら》の額《ぬか》に、罪の
記徴《しるし》を刻むと、かくこそ潮狂ふに、
月なき荒磯辺《ありそべ》、身ひとり怖れ惑ふ。

(癸卯十二月一日) 

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荒磯

行きかへり砂這《は》ふ波の
ほの白きけはひ追ひつゝ、
日は落ちて、暗湧き寄する
あら磯の枯藻《かれも》を踏めば、
(あめつちの愁《うれ》ひか、あらぬ、)
雲の裾ながうなびきて、
老松《おいまつ》の古葉音《ふるばね》もなく、
仰《あふ》ぎ見る幹《みき》からびたり。
海原を鶻《みさご》かすめて
その羽音波の砕けぬ。
うちまろび、大地《おほぢ》に呼べば、
小石なし、涙は凝《こ》りぬ。
大水《おほみづ》に足を浸《ひた》して、
黝《くろ》ずめる空を望みて、
ささがにの小さき瞳《ひとみ》と
魂《たま》更に胸にすくむよ。
秋路《あきぢ》行く雲の疾影《とかげ》の
日を掩《おほ》ひて地《ち》を射《ゐ》る如く、
ああ運命《さだめ》、下《を》りて鋭斧《とをの》と
胸の門《かど》割《わ》りし身なれば、
月負《お》ふに痩《や》せたるむくろ、
姿こそ浜芦《はまあし》に似て、
うちそよぐ愁ひを砂の
冷たきに印《しる》し行くかな。

(癸卯十二月三日夜) 

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夕の海

汝《な》が胸ふかくもこもれる秘密ありて、
常劫《じやうごふ》夜をなす底なる泥岩影《ひぢいはかげ》、
黒蛇《くろへみ》ねむれる鱗《うろこ》の薄青透《ほのあをす》き、
無限の寂寞《じやくまく》墓原領《はかはらりやう》ずと云ふ。
さはこの夕和《ゆふなぎ》、何の意《い》、ああ海原。
遠波《とほなみ》ましら帆《ほ》入日の光うけて
華やかにもまたしづまる平和《やはらぎ》、げに
百合花《ゆりはな》添へ眠《ぬ》る少女《をとめ》の夢に似るよ。

白塗《しらぬり》かざれる墓《はか》には汚穢《けがれ》充《み》つと
神の子叫びし。外装《よそひ》ぞはかないかな
花夢《はなゆめ》きえては女《め》の胸罪の宿《やど》り、
夕和《ゆふなぎ》落ちては、見よ、海黒波《くろなみ》わく。
酔《よ》はむや、再び。平和《やはらぎ》、──妖《えう》の酒に
咲き浮く泡なる。沈黙《しゞま》の白墓《しらはか》なる。

(癸卯十二月五日夜) 

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森の追懐

落ち行く夏の日緑の葉かげ洩《も》れて
森路《もりぢ》に布《し》きたる村濃《むらご》の染分衣《そめわけぎぬ》、
涼風《すゞかぜ》わたれば夢ともゆらぐ波を
胸這《は》うおもひの影かと眺め入りて、
静夜《しづかよ》光明《ひかり》を恋ふ子が清歓《よろこび》をぞ、
身は今、木下《こした》の百合花《ゆりばな》あまき息《いき》に
酔《ゑ》ひつつ、古事《ふるごと》絵巻《ゑまき》に慰みたる
一日《ひとひ》のやはらぎ深きに思ひ知るよ。

遠音《とほね》の柴笛《しばぶえ》ひびきは低《ひく》かるとも
鋤《すき》負ふまめ人《ひと》又なき快楽《けらく》と云ふ。
似たりな、追懐《おもひで》、小《ちい》さき姿ながら、
沈める心に白羽の光うかべ、
葉隠れひそみてささなく杜鵑《ほととぎす》の
春花羅綾《はるはなうすもの》褪《あ》せたる袖を巻《ま》ける
胸毛《むなげ》のぬくみをあこがれ歌ふ如く、
よろこび幽かに無間《むげん》の調《しら》べ誘ふ。

野梅《やばい》の葩《はなびら》溶きたる清き彩《あや》の
罪なき望みに雀躍《こおど》り、木の間縫《ぬ》ひて
摘《つ》む花多きを各自《かたみ》に誇《ほこ》りあひし
昔を思へば、十年《とゝせ》の今新たに
失敗《やぶれ》の跡《あと》なく、痛恨《いたみ》の深創《ふかきず》なく、
黒金諸輪《くろがねもろわ》の運命路《さだめぢ》遠くはなれ、
乳《ち》よりも甘かる幻透き浮き来て、
この森緑《みどり》の揺籃《ゆりご》に甦《よみが》へりぬ。

胸なる小甕《をがめ》は『いのち』を盛《も》るにたえて、
つめたき悲哀の塚辺《ついべ》に欠《か》くるとても、
底なる滴《しづく》に尊とき香り残す
不滅の追懐《おもひで》まばゆく輝やきなば、
何の日霊魂《たましひ》終焉《をはり》の朽《くち》あらむや。
鳴け杜鵑《ほととぎす》よ、この世に春と霊の
きえざる心を君我れ歌ひ行かば、
歎きにかへりて人をぞ浄《きよ》めうべし。
  (癸卯十二月十四日稿。森は郷校のうしろ。この年の春まだ浅き頃、
  漂浪の子病を負ふて故山にかへり、薬餌漸く怠たれる夏の日、ひとり
  幾度か杖を曳きてその森にさまよひ、往時の追懐に寂蓼の胸を慰めけ
  む。極月炬燵の楽寝、思ひ起しては惆帳に堪へず、乃ちこの歌あり。)

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おもひ出

翼酢色《はねすいろ》水面《みのも》に褪《あ》する
夕雲と沈みもはてし
よろこびぞ、春の青海、
真白帆《ましらほ》に大日《おほひ》射《さ》す如、
あざやかに、つばらつばらに、
涙なすおもひにつれて
うかびくる胸のぞめきや。

ひとたびは、夏の林に
吹鳴《ふきな》らす小角《くだ》の響きの
うすどよむけはひ装《よそ》ひて、
みかりくら狩服人《かりぎぬびと》の
駒並《こまな》めて襲ひくる如、
恋鳥《こひどり》の鳥笛《とぶえ》たのしく
よろこびぞ胸にもえにし

燃えにしをいのちの野火《のび》と
おのづから煙に酔《ゑ》ひて、
花雲《はなぐも》の天領《あまひれ》がくり
あこがるる魂《たま》をはなてば、
小《ち》さき胸ちいさき乍《なが》ら
照りわたる魂の常宮《とこみや》、
欄干《らうかん》の宮柱《みやばしら》立て、
瓔珞《えうらく》の透簾《すゐだれ》かけて、
ゆゆしともかしこく守る
夢の門《かど》。──門や朽ちけむ、
いつしかに砕けあれたる
宮の跡、霜のすさみや、
礎《いしずえ》のたゞに冷たく。──
息《いき》吹けば君を包みし
紫の靄もほろびぬ。
ふたりしてほほゑみくみし
井《ゐ》をめぐる朝顔垣《あさがほがき》の
縄《なは》さへも、秋の小霧《をぎり》の
はれやらぬ深き湿《しめ》りに
我に似て早や朽ちはてぬ。

ああされど、サイケが燭《ともし》、
かげ揺《ゆ》れて、恋の小胸に
蝋涙《ろうるい》のこぼれて焼《や》ける
いにしへの痛《いた》みは云はじ。
とことはに心きざめる
新創《にひきづ》を、空想《おもひ》の羽《はね》の
彩羽《あやば》もてつくろひかざり、
白絹《しらぎぬ》のひひなの君に
少女子《をとめご》のぬかづく如く、
うち秘《ひ》めて斎《いつ》き行かなむ
もえし血の名残《なごり》の胸に。

(癸卯十二月末) 

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いのちの舟

大海中《おほわだなか》の詩《し》の真珠《しんじゆ》
浮藻《うきも》の底にさぐらむと、
風信草《ふうしんさう》の花かほる
我家《わきへ》の岸をとめて漕ぐ
海幸舟《うみさちぶね》の真帆の如、
いのちの小舟《をぶね》かろやかに、
愛の帆章《ほじるし》額《ぬか》に彫《ゑ》り、
鳴る青潮《あおじほ》に乗り出でぬ。

遠海面《とほうなづら》に陽炎《かげろう》の
夕彩《ゆふあや》はゆる夢の宮
夏花雲《なつばなぐも》と立つを見て、
そこに、秘《ひ》めたる天《あめ》の路《みち》
ひらきもやする門《かど》あると、
貢《みつぎ》する珠《たま》、歌《うた》の珠《たま》、
のせつつ行けば、波の穂と
よろこび深く胸を感《ゆ》る。

悲哀《かなしみ》の世の黒潮《くろじほ》に
はてなく浮ぶ椰子《やし》の実《み》の
むなしき殻《から》と人云《い》へど、
岸こそ知らね、死《し》の疾風《はやち》
い捲《ま》き起らぬうたの海、
光の窓に寄る神の
瑪瑙《めのう》の皿《さら》の覆《かへ》らざる
うまし小舟を我は漕ぐかな。

(甲辰一月十二日夜) 

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孤境

老樫《おいかし》の枯樹《かれき》によりて
墓碑《はかいし》の丘辺《をかべ》に立てば、
人の声遠くはなれて、
夕暗に我が世は浮ぶ。
想ひの羽《は》いとすこやかに
おほ天《あめ》の光を追へば、
新たなる生花被衣《いくはなかづき》
おのづから胸をつつみぬ。

苔《こけ》の下《した》やすけくねむる
故人《ふるびと》のやはらぎの如、
わが世こそ霊《たま》の聖《せい》なる
白靄《しらもや》の花のあけぼの。

いたみなき香りを吸《す》へば、
つぶら胸光と透《す》きぬ。
花びらに袖のふるれば、
愛の歌かすかに鳴りぬ。

ああ地《つち》に夜《よる》の荒《すさ》みて
黒霧《くろぎり》の世を這ふ時し、
わが息《いき》は天《あめ》に通《かよ》ひて、
幻の影に酔ふかな。

(甲辰一月十二日夜) 

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錦木塚

(昔みちのくの鹿角《かづの》の郡に女ありけり。よしある家の流れなればか、かかる辺《へ》つ国はもとより、都にもあるまじき程の優れたる姿なりけり。日毎に細布織る梭の音にもまさりて政子となむ云ふなる其名のをちこちに高かりけり。隣の村長が子いつしかみそめていといたう恋しにけるが、女はた心なかりしにあらねど、よしある家なれば父なる人のいましめ堅うて、心ぐるしうのみ過してけり。長の子ところの習はしのままに、女の門に錦木を立つる事千束に及びぬ。ひと夜一本の思ひのしるし木、千夜を重ねては、いなかる女もさからひえずとなり。やがて千束に及びぬれど政子いつかなうべなふ様も見えず。男遂に物ぐるほしうなりて涙川と云ふに身をなくしてけり。政子も今は思ひえたえずやなりけむ、心の玉は何物にも代へじと同じところより水に沈みにけり。村人共二人のむくろを引き上げて、つま恋ふ鹿をしぬび射にするやつばら乍らしかすがにこのことのみにはむくつけき手にあまる涙もありけむ、ひとつ塚に葬りりて、にしき木塚となむ呼び伝へける。花輪の里より毛馬内への路すがら今も旅するひとは、涙川の橋を渡りて程もなく、草原つづきの丘の上に、大きなる石三つ計り重ねて木の柵など結ひたるを見るべし。かなしとも悲しき物語のあとかた、草かる人にいづこと問へばげにそれなりけり。伝へいふ、昔年々に都へたてまつれる陸奥《みちのく》の細布と云ふもの、政子が織り出しけるを初めなりとかや。)

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にしき木の捲

槇原《まきばら》に夕草床布《ゆふぐさどこし》きまろびて
淡日《あわひ》影《かげ》旅の額《ぬか》にさしくる丘、
千秋古《ちあきふ》る吐息なしてい湧く風に
ましら雲遠《とほ》つ昔《かみ》の夢とうかび、
彩もなき細布《ほそぬの》ひく天《あめ》の極み、
ああ今か、浩蕩《おほはて》なる蒼扉《あをど》つぶれ
愁知る神立たすや、日もかくろひ、
その命令《よざ》の音なき声ひびきわたり、
枯枝のむせび深く胸をゆれば
窈冥霧《かぐろぎり》わがひとみをうち塞《ふさ》ぎて、
身をめぐる幻《まぼろし》、──そは百代《もゝよ》遠き
辺《へ》つ国《くに》の古事《ふるごと》なれ。ここ錦木塚。

立ちかこみ、秋にさぶる青垣山《あをがきやま》、
生《い》くる世は朽葉なして沈みぬらし。
吹鳴《ふきなら》せる小角《くだ》の音も今流れつ、
狩馬《かりうま》の蹄《ひづめ》も、はた弓弦《ゆづる》さわぐ
をたけびもいと新たに丘《をか》をすぎぬ。
天《あま》さかる鹿角《かづの》の国、遠いにしへ、
茅葺《かやぶき》の軒並《な》めけむ深草路《ふかくさぢ》を、
ああその日麻絹織るうまし姫の
柴の門行きはばかる長《をさ》の若子《わくご》、
とぢし目は胸戸《むなど》ふかき夢にか凝《こ》る、
うなたれて、千里《ちさと》走る勇みも消え、
影の如《ごと》たどる歩みうき近づき来《く》る

和胸《やはむね》も愛の細緒《ほそを》繰《く》りつむぐか、
はた秋《あき》の小車《をぐるま》行く地《ち》のひびきか。
梭《をさ》の音せせらぎなす蔀《しとみ》の中
愁ひ曳《ひ》く歌しづかに漂ひくれ。
え堪へでや、小笛とりて戸の外より
たどたどに節《ふし》あはせば、歌はやみぬ。
くろがねの柱《はしら》ぬかむ力《ちから》あるに
何しかもこの袖垣《そでがき》くぢきえざる。
恋ひつつも忍ぶ胸のしるしにとて
今日もまた錦木《にしきぎ》立て、夕暗路《ゆふやみぢ》を、
花草《はなぐさ》にうかがひよる霜《しも》の如く、
いと重き歩みなして今かへり去るよ。

八千束《やちづか》のにしき木をばただ一夜《ひとよ》に
神しろす愛の門《かど》に立て果《は》つとも、
束縛《いましめ》の荒縄《あらなは》もて千捲《ちまき》まける
女《め》の胸は珠《たま》かくせる磐垣淵《いはがきぶち》、
永《なが》き世《よ》を沈み果てて、浮き来ぬらし。
真黒木《まくろぎ》に小垣《をがき》結《ゆ》へる哭沢辺《なきさはべ》の
神社《もり》にして、三輪《もわ》据《す》え、祈《の》る奈良《なら》の子《こ》らが
なげきにも似《に》つらむ我がいたみはもと、
長《をさ》の子のうちかなしむ歌知らでか、
梭の音胸刻みて猶流るる。
男《を》のなげく怨《うら》みさはに目にうつれば、
涙なす夕草露《ゆふくさづゆ》身もはらひかねつ。

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のろひ矢の捲(長の子の歌)

わが恋は、波路《なみぢ》遠く丹曽保船《にそぼふね》の
みやこ路《ぢ》にかへり行くを送る旅人《たび》が
袖かみて荒磯浦《ありそうら》に泣《なげ》きまろぶ
夕ざれの深息《ふかいき》にしたぐへむかも。
夢の如《ごと》影消《かげき》えては胸しなえて、
あこがるゝ力《ちから》の、はた泡と失《う》せぬ。

遠々《とほどほ》き春の野辺《ぬべ》を、奇琴《くしごと》なる
やは風にさまされては、猶夢路《ゆめぢ》と
玉蜻《かぎろひ》と白う揺るゝおもかげをば
追ふなべに、いづくよりか狭霧《さぎり》落ちて、
砂漠《すなはら》のみちことごと閉《と》ぢし如く、
小石なす涙そでに包み難し。

しるしの木妹《いも》が門《かど》に立てなむとて
千代《ちよ》あまり聞きなれたる梭の音の
ああそれよ、生命《いのち》刻《きざ》む鋭《と》き氷斧《ひをの》か。
はなたれて行方《ゆくへ》知らぬ猟矢《さつや》のごと、
前後《まへしりへ》暗こめたる夜《よ》の虚《うつろ》に
あてもなく滅《ほろ》び去《い》なん我にかある。

新衣《にひごろも》映《はゆ》く被《かづ》き花束《はなたば》ふる
をとめらに立ちまじりて歌はむ身も、
かたくなと知らず、君が玉の腕《かひな》
この胸にまかせむとて、心たぎり、
いく百夜《もゝよ》ひとり来《き》ぬる長き路の
さてはただ終焉《をはり》に導《ひ》く綱《つな》なりしか。

呪《のろ》ひ矢《や》を暗《やみ》の鳥《とり》の黒羽《くろば》に矧《は》ぎ、
手《て》にとれど、瑠璃《るり》のひとみ我を射《ゐ》れば、
腕《うで》枯れて、強弓弦《つよゆづる》をひく手はなし。
三年《みとせ》凝《こ》るうらみの毒、羽《は》にぬれるも
かひなしや、己《おの》が魂《たま》に泌《し》みわたりて
時じくに膸《ずゐ》の水の涸《か》れうつろふ。

愛ならで、罪うかがふ女《め》の心を
きよむべき玉清水の世にはなきを、
なにしかも、暁《あけ》の庭面《にはも》水錆《みさび》ふかき
古真井《ふるまゐ》に身を浄《きよ》めて布《ぬの》を織《を》るか。
梭《をさ》の手をしばし代《か》へて、その白苧《しらを》に
丹雲《にぐき》なしもゆる胸の糸《いと》添へずや。

ああ願ひ、あだなりしか、錦木をば
早や千束立てつくしぬ。あだなりしか。
朝霜の蓬《よもぎ》が葉に消え行く如、
野の水の茨《うばら》が根にかくるゝ如、
色あせし我が幻、いつの日まで
沈淪《ほろび》わく胸に住むにたへうべきぞ。

わが息《いき》は早や迫《せま》りぬ。黒波《くろなみ》もて
魂《たま》誘《さそ》ふ大淵《おほふち》こそ、霊《れい》の海《うみ》に
みち通ふ常世《とこよ》の死《し》の平和《やはらぎ》なれ。
うらみなく、わづらひなく、今心は
さながらに大天《おほあめ》なる光と透《す》く。
さらば姫、君を待たむ天《あめ》の花路《はなぢ》。

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梭の音の捲(政子の歌)

さにずらひ機《はた》ながせる雲《くも》の影も
夕暗にかくれ行きぬ。わがのぞみも
深黒《ふかくろ》み波しづまる淵《ふち》の底に
泥《ひぢ》の如また浮きこずほろび行きぬ。

涙川つきざる水澄《す》みわしれど、
往きにしは世のとこしへ手にかへらず。
人は云ふ、女《め》のうらみを重き石と
胸にして水底《みぞこ》踏《ふ》める男《を》の子《こ》ありと。

枯蘆《かれあし》のそよぐ歌に、葉のことごと、
我《あ》をうらみ、たえだえなす声ぞこもれ。
見をろせば、暗這《は》ふ波ほのに透《す》きて
我《あ》をさそふ不知界《みしらぬよ》のさまも見ゆる。

真袖《まそで》たち、身を浄めて長年月《ながとしつき》、
祈りぬる我《あ》が涙の猶足らでか、
狂ほしや、好《よ》きに導《ひ》けと頼《たの》みかけし
一条《ひとすぢ》の運命《さだめ》の糸《いと》、いま断《た》たれつ。

来《こ》ずあれと待《ま》ちつる日ぞ早や来《きた》りぬ。
かねてより捧げし身、天《あめ》のみちに
美霊《うまだま》のあと追はむはやすかれども、
いと痛き世のおもひ出また泣かるる。

石戸《いはど》なす絆累《ほだし》かたき牢舎《ひとや》にして
とらはれの女《め》のいのち、そよ、古井《ふるゐ》に
あたたかき光知らず沈む黄金《こがね》、
かがやきも栄《さか》えも、とく錆《さび》の喰《は》みき。

鹿《しか》聞《き》くと人に供《ぐ》せし湯《ゆ》の沢路《さはみち》
秋摺《あきず》りの錦もゆるひと枝《えだ》をば
うち手折《たを》り我《あ》がかざしにさし添へつつ、
笑《ゑ》ませしも昨日《きのふ》ならず、ああ古事《ふるごと》。

半蔀《はじとみ》の明《あか》りひける狭庭《さには》の窓、
糸の目を行き交《か》ひする梭の音にも、
いひ知らず、幻湧き、胸せまりて、
うとき手は愁ひの影添ふに痩《や》せぬ。

ほだし、(ああ魔が業《わざ》なれ。)眼《め》を鋭《するど》く
みはり居て、我《あ》が小胸《をむね》は萎《しな》え果てき。
その響き、心を裂《さ》く梭をとりて
あてもなく泣き祈れる我《あ》は愚かや

心の目《め》内面《うちも》にのみひらける身は、
霊鳥《たまどり》の隠れ家《が》なる夢の国に
安き夜を眠りもせず、醒めつづけて、
気の阻《はば》む重羽搏《おもはうち》に血《ち》は氷《こほ》りぬ。

錦木を戸にたたすと千夜《ちよ》運びし
我《あ》が君の歩ます音夜々《よゝ》にききつ。
その日数《ひかず》かさみ行くを此いのちの
極《きは》み知る暦《こよみ》ぞとは知らざりけれ。

恋ひつつも人のうらみ生矢《いくや》なして
雨とふる運命《さだめ》の路など崢《こゞ》しき。
なげかじとすれど、あはれ宿世《すぐせ》せまく
み年《とせ》をか辿《たど》り来しに早や涯《はて》なる。

瑞風《みづかぜ》の香り吹ける木蔭《こかげ》の夢、
黒霧《くろぎり》の夢と変《かは》り、そも滅びぬ。
絶えせざる思出にぞ解《と》き知るなる
終《つひ》の世の光、今か我《あ》がいのちよ。

玉鬘《たまかづら》かざりもせし緑《みどり》の髪
切《き》りほどき、祈《いの》り、淵《ふち》に投げ入るれば、
ひろごりて、黒綾《くろあや》なす波のおもて、
声もなく、夜の大空風もきえぬ。

枯藻《かれも》なす我が髪いま沈み入りぬ。──
さては女《め》のうらみ生《い》きて、とはの床に
夫《せ》が胸をい捲《ま》かむとや、罪深くも。──
青火する死の吐息ぞここに通ふ。

ひとつ星《ぼし》目もうるみて淡《あは》く照るは、
我《あ》を待つと浩蕩《おほはて》の旅さぶしむ夫《せ》か。
愛の宮天《あめ》の花の香りたえぬ
苑《その》ならで奇縁《くしゑにし》を祝《ほ》ぐ世はなし。

いざ行かむ、(君しなくば、何のいのち。)
悵《いた》み充《み》つ世の殻《から》をば高く脱《ぬ》けて、
安息《やすらぎ》に、天台《あまうてな》に、さらばさらば、
我《あ》が夫《せ》在《ま》す花の床にしたひ行かむ。
  (甲辰の年一月十六、十七、十八日稿。この詩もと前後六章、二人の
  死後政子の父の述懐と、葬りの日の歌と、天上のめぐり合ひの歌とを
  添ふべかりしが、筆を措きしよりこゝ一歳、興会再び捉へ難きがまゝ
  に、乍遺憾前記三章のみをこの集に輯む。)

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鶴飼橋に立ちて

   (橋はわがふる里渋民の村、北上の流に架したる吊
   橋なり。岩手山の眺望を以て郷人賞し措かず。春暁
   夏暮いつをいつとも別ち難き趣あれど、我は殊更に
   月ある夜を好み、友を訪ふてのかへるさなど、幾度
   かこゝに低回微吟の興を擅《ほしいまま》にしけむ。)

比丘尼《びくに》の黒裳《くろも》に襞《ひだ》そよそよ
薫《くん》ずる煙の絡《から》む如く、
川瀬《かはせ》をながるる暗の色に
淡夢心《あはゆめごゝろ》の面虛《おもぎぬ》して、
しづかに射《さ》しくる月の影の
愁ひにさゆらぐ夜の調《しらべ》、
息なし深くも胸に吸《す》へば、
古代《ふるよ》の奇琴《くしごと》音をそへて
蜻火《かぎろひ》湧く如、瑠璃《るり》の靄《もや》の
遠宮《とほみや》まぼろし鮮《さや》に透《す》くよ。

八千歳《やちとせ》天《あめ》裂《さ》く高山《たかやま》をも、
夜《よ》の帳《ちやう》とぢたる地《つち》に眠る
わが児《こ》のひとりと瞰下《みおろ》しつゝ、
大鳳《おほとり》生羽《いくは》の翼あげて
はてなき想像《おもひ》の空を行くや、
流れてつきざる『時』の川に
相噛《あひか》みせめぎてわしる水の
大波浸《おか》さず、怨嗟《うらみ》きかず、
光と暗とを作る宮に
詩人ぞ聖なる霊の主《あるじ》

見よ、かの路なき天《あめ》の路を
雲車《うんしや》のまろがりいと静かに
(使命《しめい》や何なる)曙《あけ》の神の
跡追ひ駆《か》けらし、白葩《しらはなびら》
桂の香降《ふ》らす月の少女《をとめ》、
(わが詩の驕《おご》りのまのあたりに
象徴《かたど》り成りぬる栄《はえ》のさまか。)
きよまり凝りては瞳の底
生火《いくひ》の胸なし、愛の苑《その》に
石神《せきじん》立つごと、光添ひつ。

尊ときやはらぎ破らじとか
夜の水遠くも音沈みぬ。
そよぐは無限の生《せい》の吐息、
心臓《こゝろ》のひびきを欄《らん》につたへ、
月とし語れば、ここよ永久《とは》の
詩の領《りやう》朽《く》ちざる鶴飼橋《つるがひばし》。
よし身は下ゆく波の泡と
かへらぬ暗黒《くらみ》の淵《ふち》に入るも
わが魂《たま》封《ふう》じて詩の門《と》守る
いのちは月なる花に咲かむ。

(甲辰一月二十七日) 

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落瓦の賦

   (幾年の前なりけむ、猶杜陵の学舎にありし頃、秋
   のひと日友と城外北邱のほとりに名たゝる古刹を訪
   ひて、菩提老樹の風に嘯《うそぶ》ぶく所、琴者胡弓を按じて
   沈思頗《すこぶ》る興に入れるを見たる事あり。年進み時流れ
   て、今寒寺寂心の身、一夕銅鉦の揺曳に心動き、追懐
   の情禁じ難く、乃ち筆を取りてこの一編を草しぬ。)

時の進みの起伏《おきふし》に
(かの音沈む磬《けい》に似て、)
反《そ》れて千年《ちとせ》をかへらざる
法《のり》の響《ひゞき》を、又更に、
灰《はい》冷《ひ》えわたる香盤《かうばん》の
前に珠数《じゆず》繰《く》る比丘尼《びくに》らが
細き唱歌《しようか》に呼ぶ如く、
今、草深き秋の庭、
夕べの鐘のただよひの
幽《かす》かなる音をともなひて、
古《ふ》りし信者《しんじや》の名を彫《ゑ》れる
苔《こけ》も彩《あや》なき朽瓦《くちがはら》、
遠き昔の夢の跡
語る姿の悵《いた》ましう
落ちて脆《もろ》くも砕けたり。

立つは伽藍《がらん》の壁の下《もと》、──
雨に、嵐に、うたかたの
罪の瞳を打とぢて
胸の鏡《かゞみ》に宿りたる
三世《さんぜ》の則《のり》の奇《く》しき火を
怖れ尊とみ手を合はせ
うたふて過ぎし天《あめ》の子《こ》の
袖に摺《す》れたる壁の下《もと》。──
ゆうべ色なく光なく
白く濁れる戸に凭《よ》りて、
落ちし瓦《かはら》の破片《かけ》の上
旅の愁の影淡う
長き袂を曳《ひ》きつつも、
転手《てんじゆ》やはらに古琴《ふるごと》の
古調一弾《こちやういちだん》、いにしへを
しのぶる歌を奏《かな》でては、
この世も魂《たま》ももろともに
沈むべらなる音《ね》の名残
わづかに動く菩提樹《ぼだいじゆ》の
千古の老《おひ》のうらぶれに
咽《むせ》ぶ百葉《もゝは》を見あぐれば、
古世《ふるよ》の荒廃《すさみ》いと重く
新たに胸の痛むかな。

あはれ、白蘭《はくらん》谷ふかく
馨《かほ》るに似たる香《かう》焚《た》いて、
紫雲《しうん》の法衣《はふえ》揺《ゆ》れぬれば、
起る鉦皷《しやうこ》の荘厳《おごそか》に
寂《さ》びあるひびき胸に泌《し》み、
すがた整《とゝの》ふ金龍《こんりゆう》の
燭火《ともし》の影に打ゆらぐ
宝樹の柱、さては又
ゆふべゆふべを白檀《びやくだん》の
薫《かほ》りに燻《けぶ》り、虹を吐く
螺鈿《らでん》の壁の堂の中、
無塵《むじん》の衣《ころも》帯《おび》緩《ゆる》う
慈眼《じげん》涙にうるほへる
長老《ちやうらう》の呪《じゆ》にみちびかれ、
裳裾《もすそ》静かにつらなりて、
老若《らうにやく》の巡礼《じゆんれい》群《むれ》あまた、
香華《かうげ》ささぐる子も交《まじ》り、
礼讃《らいさん》歌ふ夕《ゆふ》の座《ざ》の
百千《もゝち》の声のどよみては、
法《のり》の栄光《さかえ》の花降らし、
春の常影《とかげ》の瑞《みづ》の雲
靆《なび》くとばかり、人心
融《と》けて、浄土《じやうど》の寂光《じやくくわう》を
さながら地《つち》に現《げn》じけむ
驕盛《ほこり》の跡はここ乍ら、
(信《しん》よ、荒磯《ありそ》の砂の如、
もとの深淵《ふかみ》にかくれしか、
果《は》たや、流転の『時』の波
法《のり》の山をも越えけむか。)
残《のこ》んの壁のたゞ寒く、
老樹《らうじゆ》むなしく黙《もく》しては、
人香《ひとが》絶《た》えたる霊跡《れいぜき》に
再び磬《けい》の音もきかず、
落つる瓦のたゞ長き
破壊《はゑ》の歴史に砕けたり

似たる運命《さだめ》よ、落瓦《おちがはら》。
(めぐるに速き春の輪の
いつしか霜にとけ行くを、)
ああ、ああ我も琴の如、──
暗と惑ひのほころびに
ただ一条《ひとすじ》のあこがれの
いのちを繋《つな》ぐ光なる、──
その絃《いと》もろく断《た》へむ日は、
弓弦《ゆづる》はなれて鵠《かう》も射《ゐ》ず、
ほそき唸《うな》りをひびかせて
深野《ふけの》に朽つる矢の如く、
はてなむ里《さと》よ、そも何処。

琴を抱いて、目をあげて、
無垢《むく》の白蓮《しらはす》、曼陀羅華《まんだらげ》、
靄と香を吹き霊の座を
めぐると聞ける西の方、
涙のごひて眺むれば、
澄みたる空に秋の雲
今か黄金《こがね》の色流し、
空廊《くろう》百代《もゝよ》の夢深き
伽藍《がらん》一夕《いつせき》風もなく
俄《には》かに壊《くづ》れほろぶ如、
或は天授《てんじゆ》の爪《つま》ぶりに
一生《ひとよ》の望《のぞ》み奏《かな》で了《を》へし
巨人《きよじん》終焉《をはり》に入る如く、
暗の戦呼《さけび》をあとに見て、
光の幕《まく》を引き納《をさ》め、
暮輝《ゆふひ》天路《てんろ》に沈みたり。

(甲辰二月十六日夜) 

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山彦

花草《はなぐさ》啣《ふく》みて五月《さつき》の杜《もり》の木蔭《こかげ》
囀《てん》ずる小鳥に和《あは》せて歌ひ居れば、
伴奏《ともない》仄《ほの》かに、夕野の陽炎《かげろふ》なし、
『夢なる谷』より山彦《やまひこ》ただよひ来る。──
春日《はるび》の小車《をぐるま》沈《しづ》める轍《わだち》の音《ね》か、
はた彼《か》の幼時《えうじ》の追憶《おもひで》声と添ふか。──
緑の柔息《やはいき》深くも胸に吸《す》ひて、
黙《もだ》せば、猶且つ無声《むせい》にひびき渡る。

ああ汝《なれ》、天部《てんぶ》にどよみて、再《ま》た落ち来《こ》し
愛歌《あいか》の遺韻《ゐいん》よ。さらずば地《つち》の心《しん》の
琅【かん】*1《ろうかん》無垢《むく》なる虚洞《うつろ》のかへす声よ。
山彦! 今我れ清らに心明《あ》けて
ただよふ光の見えざる影によれば、
我が歌却《かえ》りて汝《な》が響《ね》の名残《なごり》伝ふ。

(甲辰二月十七日) 

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*1:「たまへん」に「干」

暁鐘

蓮座《れんざ》の雲渦《くもうづ》光の門《かど》に靉《ひ》くや、
万朶《ばんだ》の葩《はなびら》黎明《あさけ》の笑《ゑみ》にゆらぎ、
くれなゐ波なす桜の瑞花蔭《みづはなかげ》、
下枝《しづえ》の夢吹く黄金の風に乗りて
ひびくよ、暁鐘《げふしやう》、──無縫《むほう》の天領綸《あまひれ》ふり
雲輦《うんれん》音なく軋《きし》らす曙《あけ》の神が
むらさき紐《ひも》ある左手《ゆんで》の愛の鈴《すゞ》の
余韻《なごり》か、──朗《ほが》らに高薫《かうくん》乱《みだ》し走る。

見よ今、五音《ごいん》の整調《せいちやう》流れ流れ
光の白彩《しらあや》しづかに園に撒《ま》けば、
(浄化《じやうげ》の使命に勇みて、春の神も
袖をや揺《ゆ》りけめ、)綾雲《あやぐも》融《と》くる如く、
淡色《あはいろ》焔《ほのほ》と枝毎かぜに燃《も》えて、
散る花繚乱満地《りやうらんまんち》に錦《にしき》延《の》べぬ。

(甲辰三月十七日) 

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暮鐘

聖徒《せいと》の名を彫《ゑ》る伽藍《がらん》の壁に泌《し》みて
『永遠《とは》なる都《みやこ》』の滅亡《ほろび》を宣《の》りし夕、
はたかの法輪《ほうりん》無碍《むがい》の声をあげて
夢呼《よ》ぶ宝樹の林園《りんえん》揺《ゆ》れる時よ、
何らの音をか天部《てんぶ》の楽《がく》に添へて、
暮鐘よ、ああ汝《なれ》、却初《ごふしよ》の穹《そら》に鳴れる。
天風《てんぷう》二万里地《ち》を吹き絶《た》えぬ如く、
成壊《じやうゑ》の八千年《やちとせ》今猶ひびきやまず。

入る日を送りて、夜の息《いき》さそひ出でて、
栄光聖智《えいくわうせいち》を無間《むげん》に葬《はふむ》り来て、
青史《せいし》の進みと、有情《うじやう》の人の前に
永劫《えいごふ》友なる『秘密』よ、ああ今はた、
詩歌《しいか》の愁ひに素甕《すがめ》の澱《をり》と沈み
夢濃《こ》きわが魂《たま》『無生《むせい》』に乗せて走れ。

(甲辰三月十七日) 

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夜の鐘

鐘鳴る、鐘鳴る、たとへば灘《なだ》の潮《しほ》の
雷音《らいおん》落ちては新たに高む如く、
(荘厳《おごそか》なるかな、『秘密』の清き矜《ほこ》り、)
雲路《うんろ》にみなぎり、地心《ちしん》の暗にどよみ、
月影《つきかげ》朧《おぼ》ろに、霧衣《きりぎぬ》白銀《しろがね》なし、
大夢《おほゆめ》罩《こ》めたる世界に漂ひ来て、
昼《ひる》なく、夜《よる》なく、過《す》ぎても猶過ぎざる
劫遠法土《ごふをんはふど》の暗示《さとし》を宣《の》りて渡る。

影なき光に無終《むしう》の路をひらく
『秘密』の叫びよ、満林《まんりん》夢にそよぐ
葉末《はずへ》の余響《なごり》よ、ああ鐘、天の声よ。
ともしび照らさぬ空廊《くうろう》夜半《よは》の窓に
天意《てんい》にまどひて、現世《このよ》の罪を泣けば、
たふとき汝《な》が音におのづと頭《こうべ》下《くだ》る。

(甲辰三月十七日夜) 

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塔影

眠りの大戸《おほど》に秋の日暫し凭《よ》りて
見かへる此方《こなた》に、淋しき夕の光、
劫風《ごふふう》千古《せんこ》の文《ふみ》をぞ草に染めて
金字《きんじ》の塔影《とふえい》丘辺《をかべ》に長う投げぬ。
紅爛《かうらん》朽ち果て、飛竜《ひりゆう》を彫《ゑ》れる壁の
金泥《こんでい》跡なき荒廃《すさみ》の中に立ちて、
仰《あふ》げば、乱雲《らんうん》白蛇《はくじや》の怒り凄《すご》く
見入れば幽影《ゆふえい》しじまのおごそかなる。

法鐘《はふしやう》悲音《ひおん》の教を八十百秋《やそもゝあき》
投げ出す影にと夕毎葬り来て、
乱壊《らんゑ》に驕《おご》れる古塔《こたふ》の深き胸を
照らすは消沈《しやうちん》臨終《いまは》の『秋《あき》』の瞳《ひとみ》。
(神秘《しんぴ》よ躍《をど》れや、)ああ今、夜は下《くだ》り、
寂滅《じやくめつ》封《ふう》じて、万有《ものみな》影と死にぬ。

(甲辰三月十八日夜) 

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黄金幻境

生命《いのち》の源《みなもと》封じて天《あめ》の緑《みどり》
光と燃え立つ匂ひの霊の門《と》かも。──
霊の門《と》、げにそよ、ああこの若睛眸《わかまなざし》、
強き火、生火《いくひ》に威力《ちから》の倦弛《ゆるみ》織《を》りて
八千網《やちあみ》彩影《あやかげ》我をば捲《ま》きしめたる。──
立てるは愛の野、二人《ふたり》の野にしあれば、
汝《な》が瞳《め》を仰《あふ》ぎて、身は唯《たゞ》言葉もなく、
遍照《へんじやう》光裡《くわうり》の焔の夢に酔《ゑ》ひぬ。

見よ今、世の影慈光《じくわう》の雲を帯びて
輾《まろが》り音なく熱野《ねつや》の涯を走る。
わしりぬ、環《めぐ》りぬ、ああさて極まりなき
黄金《わうごん》幻境《げんきやう》! かくこそ生《せい》の夢の
久遠《くをん》の瞬《またゝ》き進みて、二人すでに
匂ひの天《あめ》にと昇華《しやうげ》の翼《つばさ》振《ふ》るよ。

(甲辰五月六日) 

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夢の花

まぼろし縫《ぬ》へる
白衣《びやくい》透《す》き、ほのぼのと
愛にうるほふ、それや白百合、
青緑《みどり》摺《す》りたる
弱肩《よはがた》の羅綾《うすもの》は
夢の焔の水無月《みなづき》日射《ひざし》、
揺れて覚《さ》めにき和風《やはかぜ》に、
眠ま白き夏の宮。
  (ああ我がいのち
  夏の宮。)

夢は破れき。
ああされど、(この姿、
この天《あま》けはひ、現《うつゝ》ながらに、)
こころ深くも
夢は猶、玉渦《たまうづ》の
光匂ひの波わく淵《ふち》や。
姫は思ひぬ、極熱《ごくねつ》の
南《みなみ》緑《みどり》の愛の国。
  (ああ我がいのち
  愛の国。)

光の唇《くち》に
曙《あけぼの》ぞよみがへり、
青風《あをかぜ》小琴《をごと》ただよふ森に、
逝《ゆ》きてかへらぬ
夢の夜の調和《とゝのひ》を
あこがれうるみ露吹く声に
姫はうたひぬ、驕楽《きやうらく》の
逝きてかへらぬ黄金《こがね》の世《よ》。
  (ああ我がいのち
  黄金の世。)

葉を蒸《む》す白昼《まひる》、
百鳥《もゝとり》の生《せい》の謡《うた》
あふれどよめく緑揺籃《みどりゆりご》の
枝《えだ》洩《も》れて地に
照りかへる強き日の
夏をつかれて、かほる吐息に
姫は悵《いた》みぬ、常安《とこやす》の
涼影《すゞかげ》甘《あま》き詩《うた》の海。
  (ああ我がいのち
  詩の海。)

山波遠く
沈む日の終焉《をわり》の瞳《め》、
今か沈みて、焔の白矢《しらや》、
涯《はて》なき涯を
わかれ行く魂《たま》の如、
うすれ融《と》け行く地の黄昏《たそがれ》に
姫は祈りぬ、大天《おほあめ》の
霊のいのちの夢の郷《さと》。
  (ああ我がいのち
  夢の郷。)

ひと日、日すでに
沈みゆき、乳香《にふかう》の
夜《よる》の律調《しらべ》を恋ふ百合姫《ゆりひめ》が
待夜《まちよ》ののぞみ、
その望み先《ま》づ破《や》れて、
暗に楯《たて》どる嵐の征矢《そや》に
姫はたをれぬ、残る香の
いと悵《いた》ましき夢の花。
  (ああ我がいのち
  夢の花。)

水無月《みなづき》ふかき
森かげの一《ひと》つ百合、
見えて見えざる世にあこがれし
ああその夢の
瞿粟花《けしばな》のにほひ羽《ばね》、
あまりに高く清らかなれば、
姫は萎れぬ、夜嵐の
妬《ねた》みに折《を》るる信《しん》の枝。
  (ああ我がいのち
  信の枝。)

香柏《かうはく》の根に
(幻や、げに)あはれ
夢の名残を葬むり去りて、
去りて嵐の
血《ち》寂《さ》びたる矢叫《やさけ》びは
いづち行きけむ。──ただ其夜より
姫は匂ひぬ青玉《せいぎよく》の
天壇《てんだん》い照る芸《げい》の燭《しよく》。
  (ああ我がいのち
  芸の燭)

(甲辰五月十一日夜) 

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しらべの海

     (上野女史に捧げたる)

淡紅《とき》染《ぞ》め卯月《うつき》の日に酔ふ香樺《にほひかば》の
律調《しらべ》のあけぼの漸やく春ぞ老いて、
歌声《うたごゑ》うるむや、柔音《やはね》の海に深く
古世《ふるよ》の思をうかべぬ。──ああほのぼの、
ゆらめく芸《たくみ》の焔の波の中に、
花摺被衣《はなずりかつぎ》よ、行きても猶透《す》きつつ、
《心は悵みぬ、ああその痛き姿。》
五百年《いほとせ》あらたに沈淪《ほろ》べる愛を呼ばふ。
凝《こ》りては瞳《ひとみ》の暫《しば》しも動きがたく、
芸《たくみ》の燭火《ともしび》しづかに我を導《ひ》きて、
透影《すいかげ》羽衣《はごろも》光の海にわしる。
見よ今、やはら手転《でてん》ずる楽《がく》の姫が
眼光《まなざし》みなぎる天路《あまぢ》の夢の匂《にほ》ひ、
光の揺曳《さまよひ》流るる律調《しらべ》の海。

(甲辰五月十五日) 

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五月姫

夢の谷、
新影《にひかげ》あまき
五月《さつき》そよ風匂ひたる
にほひ紫《むらさき》吹く桐《きり》の
夢の谷、
青草眠る
みどり小牀《をどこ》に五月姫
白昼《まひる》うるほふ愛の夢

まぼろし
姫がおもわは
ハイアシンスの滴露《しただり》の
黄金《こがね》しただりなまめける
水盤《すゐばん》の
そしらぬ光。
夢は波なき波なれや、
香脂《にほひあぶら》の恋の彩《あや》。

黒髪の
さゆらぎ似たり
むらさき房《ぶさ》の桐の花。
花はゆらぎて、わかやげる
紅《あけ》の唇《くち》
ほほゑみ添へば、
白羽夢の羽かろらかに
小蝶とまりぬ、愛の香に。

媚風《こびかぜ》の
けはひやはらに
額《ぬか》にたれたる小百合花《さゆりばな》。
小百合にほへば、我が姫の
むね円《まろ》き
ゆめも匂ひぬ、
谷もにほひぬ、天地《あめつち》の
光も夢のにほひ園《その》。

夢の谷、
ゆめこそ深き
ここぞ匂ひの愛の宮。
宮の玉簾《たまだれ》むらさきの
英華《はなぶさ》に
今ひるがへれ、
シヤロンの野花谷《のばなたに》百合《ゆり》に
ひるがへりたる愛の旗《はた》。

姫が目は
外にとぢたる、
とぢたる園の愛の門《かど》。
園をうがちて、丘こえて、
をどりつつ
生《せい》の小【じか】*1《をじか》の
おとづれ来《く》らば、姫が夢
石榴《ざくろ》と咲かめ、甘き夢。

まぼろし
さめてさめざる
(げにさもあれや、)生《せい》の谷《たに》。
谷はつつみぬ、いにしへゆ
まぼろし
さめてさめざる
光、平和《やはらぎ》、愛の夢
眠りに生《い》くる五月姫《さつきひめ》。

(甲辰五月十六)》 

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*1:「けものへん」に「章」